日に日に葉を落としていく木々の中
目立ちたがり屋のセイタカアワダチソウが
黄金色のススキの穂と並び
私達の目を楽しませてくれるこの頃。
うつしきでは、「木工家 督田昌巳 展」を開催致します。
木材の経年変化もひとつの命と捉え
ものづくりと向き合う督田さんの作品に触れてその命を感じていただける僅かな機会に
どうぞ足をお運び下さいね。
木工家 督田昌巳 展
会期 11月18日(土)~11月27日(月)
営業時間13:00-17:00
作家在廊日 18日(土)
会期中店休日 21日(火)・22日(水)
場所 うつしき
喋ること書くこと
言葉を使ってきたし使っているけれど 時折それが嫌いになる時もあって
そんな時もたびたびで無口だったり短文だったりするけれど、(そもそもだから物作りしているはず)
社会に生きていれば使わないわけにもいかないから
喋ったり書いたりする。
なんで嫌いになるんだろう?やっぱりなって後になって思うんだけど
言葉が言葉だけで考えて答えを出したり操ったりしてることに違和感か
本当は何かを表すための実体のない名札みたいなものがひとり歩きして築き上げる価値観のバーチャル感か
って ここにこうして書いてることすらそうだけれど
仕方ないと思って でも そうならないように願って…。
話は少し違うことになるけど もともとレコードで音楽を聴いてた。
レコードだと聴くの不便な時もあるからカセットテープに録音して
テープが伸びるまで聴いてた。
(伸びたテープで聴く音っていいなっていまでも思う、ゆらゆら~って)
それがCDになって最初はクリアーでHiFiな音に いいなあーと 思ったけど
なんか耳に痛いしあれでなんで音出るんだかわからんし身体と脳に悪い気もして
レコードは電気なくても耳近づければ音出てるから
でもレコードなくなっちゃってたからCDで聴いてた。
そしたらサブスク始まって。CDはまだ実体があるけど
WiFiで空中を見えないように飛んできてiphoneで捕まえて聴くの、サブスク。
もっと実体のないもの聴いててこれじゃ音楽がつまんなくなりそうって。
デジタルって人間に聞こえない音域は消して聞こえるとこも
縦に切り離してその断面だけ つまり 目次みたいなものだけにしてるんでしょ きっと。
検証や調査確認とかはしてない 僕が感じてることをそのまま書けばいーと思ってるから
切り離す間隔で目次の量が変わるからCDは短い間隔だから目次多くて
サブスクはデータ量軽くするからもっと長い間隔で目次少なめ
な 音楽ってどーなんだ?
僕はアンサンブルとかメロディーとかと同じくらいかそれ以上にギターの音とか
声とか音自体が好きだから
それって どーなんだ? ってなる。
聞こえない音がいちばん聞きたいのに!
所詮目次なんだからサブスクでいいなって思った音は
生の演奏1番
次 レコード(録音からミックスまでアナログって今ほとんどないけどそれでもその場で鳴ってるから)
3番せめて CD で聴こう
カセットテープも別格良し
そうすればサブスクの役割もはっきりして こんなに便利で適当な手段は無いから
色々諸処 整った感じ。
脱線しまくったけど 戻したら
言葉ってその人が他の人に伝えたり、保存したり、あるいは感覚的なものを見える形に捉えて
学問っていうか考えることができるものにするためにあるサブスクみたいな目次みたいなものだと思う。
目的を遂げるための手段で実は本質はそこには無いんじゃーないかと。
文字を使わない口頭伝承の文化ってあるけどあれはそれがわかってるから 声 という実体のあるもので
その響きが大事で なんか怖い感じとか優しいよとか嬉しいよ!とか悲しい、とか を伝える。
で
言葉がない時代
人間の頭ん中ってどうだったんだろう?て想像する
人は言葉が、名前が、ついて初めて物事を認識できるようになるけど現在。
原始、認識することができないから思考できない今の 瞬間の連続した始まりと終わりのない感覚の世界!
それって内面の世界がどっかに繋がってて目次から解放された無限ってこと
すげー! どんな感覚の世界なんだ!
憧れるから近寄りたい!
もう言葉知ってしまった僕には無理かもしれんけども。
何かを作るときは泥から掬う
澄んだ水から作れないやっぱり無駄こそ大事で愛おしいぞ。
世界一無駄な人間になって宇宙一無駄なものを作ろう!
督田昌巳
「展示会はどこかに向かっている自分の今を切り取る事」と仰る督田さん。
立冬を迎え、一日一日と日が短くなり
うつしきの庭で紅葉する植物たちを見ていると
今という瞬間がかけがえのないものに思えます。
このかけがえのない一瞬に
皆さまとご一緒できること、心から楽しみにしております。
取材映像
木工家 督田昌巳 展