うつしき

うつしき

子どもの情景

まだ1歳にもならない赤ん坊の私が居間でティッシュを引き出して一人遊びをしている。
当時流行った8mmビデオに収められたなんてことないシーン。
背景にはエリック・サティの音楽が流れている。
物心ついてたぶん何度か見たんだろう、
なんとなくふわふわとした幸福の象徴として、両親の視線の先のその映像が心の奥底にある。
そんな理由でか、サティの音楽を聴くとどこか記憶の中にぐいぐい手繰り寄せられる。

小学生になって本のむしと化した私は図書室の本を片っ端から読むのにはまっていた。
休み時間と放課後が待ち遠しくて、チャイムが鳴るのを心底たのしみにしていた。
そんななか見つけた1冊の本の中にサティがでてきた。
いたずら好きで、変わり者だけど人をわくわくさせるのが大好きだった人。
曲名のつけ方なんてめちゃくちゃだ。
死んでしまった時ですら発見された時にびっくり箱のような仕掛けを施していたそう。
ますます好きになった。
本の中には私が知らないタイトルの曲のことが描かれていた。
゛金の粉゛と題されたワルツ。
手がかりはそれだけでもうっとりする題名に魅了されて想像はどこまでもふくらんだ。

今では簡単に気になる事柄を検索して瞬時に知りたい情報を受け取れるけれど、
その頃は人に聞いたり、本で調べたりするしか方法を知らなかった。
そんな中思いついたのは当時習っていたピアノの発表会でその曲を弾くこと。
あきれるほど不真面目な生徒で、先生が選んだ曲をしぶしぶ弾いてへたっぴな自分にうんざりしていたのが、
゛自分で選ぶ゛を実行した途端に不思議とやる気が湧き上がった。
ほんとうになんて単純なんだろう。
こうして楽譜を手に入れることが出来、先生のお手本という形で金の粉を聴くことに成功する。
子ども用のやさしいレベルに直されていたから、実際のものを聴くのはずっとずっと後のこと。
それでも好奇心を自分なりに辿って行ったことが嬉しくてたまらなかったのをよく憶えている。

随分と時を経てサティが自らの楽曲を゛家具の音楽゛と呼んでいたことを知る。
捉え方に諸説あると思うが、
家具のようにそこにあっても日常生活を妨げない音楽、意識的に聴かれることのない音楽。

その頃大学で織物を専攻していた私は絨毯を織っていた。
そんなものをつくっていたのは一人きりで、
競うように独特なものを作っている周囲をすごいなあと思いながらも
日常の景色の一部になることに興味があった。
その時には何の意識がいかなくても、ずっと時間が経って
なんとなく景色の片隅にある記憶の奥底に知らないうちに潜り込んでいるような。

辿っていくと子どもの頃から頑固で変わらないのかもと点が線で繋がる。
ぐねぐねとしているようで振り返った時の好きが一貫している。
自分は何をしているんだろうと落ち込むことがよくあるけれで、
むつかしくしているのは自分自身で、
単純に好きに潜り込んでしまえばいいやと思いなおしている。

そして音やにおいや景色の一欠片から゛思い起こす゛という感覚も私にとってはとても大切で、
その人の環境や育んできた経験からでしか表れない感覚を、かけがえなく思うのです。

小西 紗生