今日はせっかく白日の展示中ということもあり「古物」の魅力について書こうと思う。
蚤の市や古道具屋をぶらぶらするのは楽しい。その辺のお店では見たことのないような、一体何に使ってたんだという物珍しいモノがある。使い込まれた道具や古い器。ぱっと見はただのガラクタにしか見えないものも多数ある。じっと見つめて手に取り、指でなぞってみると、小さな傷や継ぎ目がふっと過去の気配を呼び起こしてくれる。古物には、何層にも折り重なった時間が静かに息づいている。それは、単なる「古いもの」ではなく、記憶の扉を開く鍵なのだ。
一口に古物といっても骨董、古美術、古道具とそこには違いがある。骨董は美術的・歴史的価値をもち、しばしば鑑賞や蒐集の対象とされたきた。古美術は骨董の中でも特に美術的価値の高いものを指す。一方で、古道具は生活に根ざし、実用の中で価値を見出されるものが多い。江戸時代の漆器や陶磁器が骨董なら、室町時代の絵画、平安時代の仏像などは古美術にあたり、昭和初期の木製の家具や日用品は古道具といえる。分類はざっくりしているが、これらをまとめて古物と括られていることが多い。どれも時を超えて受け継がれてきたという点では一緒だが、そこに宿る価値の方向性が少々異なる。それぞれを隔てる垣根は先人たちの努力によりかなり薄れてきているように思う。
古物を本当に楽しむには「眼」が大切だとよく言われる。ある老舗 道具屋の店主が「本当にいい道具は、長く使われることで命が宿る」と言っていた。確かにそうかもしれない。時間とともに味わいが増していく古物は、人の生き方とも似ている。年を重ねるごとに皺が刻まれた顔に、それぞれの物語があるように。
物の奥に眠る時間や物語を見抜く力、そして審美や価値を見極める力、それが「眼」である。ただ眺めるのではなく、その道具がどんな時代を生きてきたのか、どんな人がどんなふうに使っていたのかを想像しながら向き合うと、古物の魅力はぐっと深まる。
思えば、古物とは時間の積層だ。ある時代に生まれ、人の手を渡りながら使われ、いつしか市場に流れ、再び誰かの手元に落ち着く。その過程で生まれる傷や継ぎ目こそ、時間のレイヤーそのものだ。私たちは、その一端を引き継ぎ、また新しい文脈を与えていく。
民俗学的な視点で考えると、道具とは単なる機能性の追求ではなく、人々の生活様式や精神性を映し出すものだ。例えば、茶道具には「わび・さび」の思想が込められ、使い込まれるほどに価値が増す。一方、ヨーロッパの銀器は装飾性や格式を重視し、家の格や伝統を示す象徴でもあった。文化人類学的に見ると、物は単独で存在するのではなく、社会的な役割を担い、コミュニティの中で意味を持つ。
古物を家に持ち帰り空間に並べると、時に違和感を生じることがある。古いものには、それが存在していた環境の空気が染み込んでいるからかもしれない。モダンなインテリアの中に、ぽつんと置かれた古物。最初は異物感があるが、時間とともに空間に馴染み、新たな調和を生む。この取り合わせや空間との親和性を考えるのもまた、古物を楽しむひとつの醍醐味だ。
現代はミニマリズムが流行し、「少ないほうが豊か」という価値観が広がっている。それもよくわかる。しかし、ものを蒐集することは必ずしも時代に逆行することではないと思っている。それは、過去や歴史との対話であり、自分の内側にある「美」の探求でもある。古物を集めることは、ただ物を増やすことではない。その道具が生まれた時代の暮らし、その道具を使っていた人の手癖、時間とともに変化してきた形。それらを感じ、受け取り、また新しい意味を見つけること。そこに、古物の面白さがある。ただの物欲ではなく、歴史や文化への関心の表れなのだ。←ここ、自分への言い訳も含めて声を大にして言いたい!笑
もう十数年以上前に世田谷ボロ市で明治時代の懐中時計を買った。たしか値段は3000円くらいのジャンク品だったと思う。だけど銀色のケースには細かな彫刻が刻まれ、ガラスの内側には小さな傷がいくつもついていた。蓋を開けると、精巧な歯車がひっそりと収まっている。その時計の針は、かつて誰かの時間を刻んでいた。工房で作られたばかりの頃、商人の手に渡ったのかもしれないし、戦場へ持ち込まれたこともあったかもしれない。家族への贈り物にした人もいれば、旅の道連れにした人もいる。持ち主が変わるたびに修理されながら、百年以上経った今、この時計がここにある。単なる懐中時計ではなく、長い時間の流れを渡ってきた物語の一部なのだ。そう思うと物一つの奥行きが一気に広がる。
プルーストの世界一長いことで有名な3000ページ以上ある小説『失われた時を求めて』の中で、マドレーヌの香りが記憶の扉を開く瞬間を描いていた。古物もまた、時間を媒介するメディアの役割を担う存在だ。手に取ったとき、その手触りや重み、微細なひび割れが、過去の断片をそっと運んでくる。それは個人の記憶ではないかもしれないが、ある時代の誰かが触れ、見つめた時間が、いまここに交差する。
古物の魅力とは一体何なのだろう。これは過去から届いた問いのようなものかもしれない。ただ古いものとして扱うのか、それともそこに宿る時間や記憶を受け取り、今に生かすのか。骨董と古道具、あるいは古美術の垣根を越えて、自分なりの「眼」を育てること。それが、ものを選び、所有し、愛でる自由につながるのだと思う。古物を手にするということは、時間と記憶の呼吸を聞くこと。そして、過去と未来が交わる瞬間に、自分という存在をそっと重ねる。そんなことを大量の古物に囲まれる今回の白日展の中で感じるのです。その解釈は人それぞれ違っていい。違うからこそ、その差異が面白い。それぞれが理想とする独自の世界観を磨き続け、そのスタイルの完成を目指していく。
そういう意味でも、一人の人間が長い年月をかけて集めてきたものの奥行きを感じてほしいです。僕が白日で展示をする時でも、どれだけ飲み過ぎた次の日でも必ず誰よりも早く骨董市に行っている。西坂晃一という一人の男の情熱の結晶が今回の展示と言えるのです。他にも企画力やプロデュース力、空間構成力という魅力はありますが。是非これだけの物量が並ぶこの機会に色々と手に取って、日常生活の中に時空を旅する時間を作ってみてくださいね。展示は2/9(日)までとなっていまーす。
では、今週も最高にラブリーでハッピーな週をお過ごしください。
いつも遠方からうつしきまで足を運んでくださるみなさま、この長いブログを読んでくださるみなさまに心から愛を込めて♡
亡くなってからというもの、無性にチバの声が聴きたくなるぜぇ。
なぁ、パンクス 愚痴ってばっかいねえで 愛でぬりつぶせ
小野泰秀