ある朝、写経の手を止めて
今日は目の前の文字を声に出して読んでみよう
喉を震わせて、口を動かしてみると
いつも捉えている言葉のイメージとなんだか違う…?
視覚で捉えて書くことと声に出して自分の聴覚で聞くということは違うのだということ
同じ文字なのに入ってくる感覚が違う面白さを見つけたその日
また一段と260文字ほどでまとめられた般若心経の偉大さに感動するのでした。
前回の日記で心震えた詩と出会ったと綴りましたが
それから様々な詩を読んでいます。
恥ずかしながら”詩”って自分にとってよくわからない存在でした。
対句や倒置などの方法もうっすら覚えている程度
短い世界が理解できないまま、次のページ、その次と読むことが耐えられず、
詩集を一冊読むなんて考えられない…
わからないならそもそも読む必要があるのかと
詩を読むことを遠ざけていたように思います。
詩というのは、散文とちがって意味だけを伝えるものではなくて音の響きとかイメージとか、いろんなもので言葉ってものを伝えていくわけです。だから無意味なものを詩に書くことで、逆にその意味以前の世界の触感、手触り、存在そのもののリアリティみたいな、言葉にどうしてもできないものを感じさせる、っていうのが詩の役目のひとつとしてあるんじゃないかっていうふうに思っています。
以前ならきっと読み流していたであろう詩人 谷川俊太郎氏の言葉
今では書き残しておきたいとメモをする。
「空」を悟るための智慧の教えを唱える”般若心経”
ひとつひとつの訳を見れば納得がいくのですが
いつまで経っても、わかった気になっているだけの感覚がありました。
意味を持たせると荒唐無稽なことになると、サンスクリット語を音写しただけの部分がなぜあるのか、
声に出して読み、ようやくぼんやりとそこを感じ、その奥への入り口があるように思えてきたのです。
なんだか般若心経は詩のようだなぁと、より一層関心が深まり、また”詩”というものがなぜこんなにも書かれているのか興味も沸いてきて、今はただただ愉しい。
旧字である聲(こえ)という漢字には音を響かせ、浴びさせるという意味があり、声の下に耳があてられている。出した声が耳に入り触れることが声。自分の声、誰かの声、音としてわたしたちは鼓膜から触覚的に捉えることができる。
文字をまだ認識していない我が家の2歳の娘はこないだ絵本をひらきながら”あーむ”と声に出して見ていたのでわたしも一緒にいうと、違う!と言われた 笑
彼女の”あーむ”という音と母の音は違うらしい。そうやって、言葉に奥行きができてくるのかと思うと読み聞かせも本当大切です。
といいつつも最近眠くって、、
全然出来ていなかったけれど、読んであげなくっちゃ!と思いました 笑
今しかできないことですもんね。
土曜日から始まった熊谷峻 境田亜希 展では意味以前の世界の触感、手触りを想像するような硝子の景色となり
沢山の方たちが足を運んでくださいました。
今週中にオンラインの更新を予定しておりますので、
遠方の方は愉しみにお待ちくださいね。
展示は3月2日までとなりますのでぜひいらしてください〜◯
さぁ、今週も声出してこ〜 !(バレー部時代を思いだす)
佳き週の始まりを◎