うつしき

うつしき

持病が気づかせてくれたこと

昨日、あたたかな温度で閉幕した㓛刀匡允展。

最初の土日は、小豆島より橡 人によるランチと喫茶。

ラサとチャイはじめ、やさしいのに色んな味がする焼き菓子などを手に、たくさんの笑顔が花咲いていました。

そして最後の土日は、神ノ川舞宙音さんによる懐石料理 師走ノ昼膳。

産休育休中、今回うつしきに来てくださることが仕事復帰ということでしたが

一皿一皿美しい景色が広がる会をご用意してくださいました!

企画盛りだくさんな展示となりましたが、

足をお運びくださった皆様(なかには何度もご来展下さった方々)ありがとうございました○

ずっと青空が続いていた会期中とは一転、閉幕後の今日からは冷え込み。

師走とは思えない気候(高気圧)から一気に低気圧に入って、強めの雨が続いています。

お恥ずかしいことにその差にバランスを崩したのか、今日の深夜~明け方に持病が悪化し、呼吸ができなくなり病院へ。

実はちょっと前にも同じことが。

 

元来、風邪や流行りものにはあまりかからないため

「身体も気も満ちていてつよいほう。」なんて自負がどこかしらあるものですが

いやいや、待って。

2歳から付き合っている持病とカビ・ダニ・ハウスダスト・花粉アレルギー起因の不調を「当たり前のもの」としてノーカウントにしていることに、今更ながら気が付き。

さすがに今回つづいた救急や、救急にお世話にならないまでも眠れない発作が続いた11月を振りかえって、
原因を内省せざるを得ない時間を過ごしました。

そうすると思い当たるのは

もちろん季節の変わり目や気温差など最後の引き金もありつつ、

いずれも見えないところの原因は身体的疲労や気の疲れ。

 

とはいえ、それが自分にとって「嫌々無理をしていた」とか

「実はめちゃくちゃ頑張った」とかいう自認ではないので、気が付くのが難しいところ…

 

よくもわるくも「自分の身体の状態・声は自分にしかわからない」もの。

いくら自身が呼吸できず声も出せない状態だとしても、

症状をしらない家族は最初「大きな寝息を立てているだけかな?」と思ったようだし(最終的に運んでくれて感謝)

カビや大気汚染で苦しくなったとしてもそうならない人にとっては実際の程度がわからない。

気にしていると、「これくらいで?大袈裟だなぁ」と言われることもあります。

もちろん逆もまた然り、です。

 

これって、ひとによって価値観や考え方が違うというのと、同じことですよね。

「身体の感覚」も、意見や価値観と同様 人によってちがうという当たり前。

 

手当について学び実践しているのに、

自分自身の幼少期からの持病や性質については見落としてしまっていたのでした。

今回内省してみて

「(大袈裟に思われたくないし恥ずかしいから) できるだけ言わない。なんとかなる。」という感情が優位に働いてきていた自分にも気が付くことができました。

 

でも実際、大小危険に晒されるのは、ほかでもない自分。

 

「自分自身のいのちと健やかさ」を守るために何をしなければならないのか。

わたしには何ができて何ができないのか。

本当は嫌だと感じていることは何か。

…他人や社会の目を気にしている場合ではない!のです。

 

いつだって私たちは

「ちっぽけな私の許容範囲」をふくらませる努力ばかりに意識がむいているけれど

「これでもいい、これが自分」と認めることも同等に大事なこと。

 

多くの人にとってそうだと思いますが、私にとっても

会話でうまく笑えない(頑張って笑う)状態が続くときや、

時間軸や会話(自分が話すこと)の記憶が曖昧になってきたら、

疲れがたまっているサインなんだと

恥ずかしがらず(これが難しい)、冗談にせず、真面目に気が付こうと思えました。

 

とはいえ、こういうことは年に何度も頻発することではないと思うので、しっかり考えるいい機会!

わたしが間 の屋号で行っている新月と満月にひらく瞑想茶会「新月・満月の標」

ここ半年お休みしていましたが、やっぱりそろそろ自身にとって必要なよう。

どこか特別な時間を切り分けるのではなく日常の中で調う猶予や余地をつくっていくことが

大きなズレや軋みを起こさない優しい方法。

瞑想でなくともいいのですが^^

身体が不安定なときは、高い確率で精神面も不安定になり

思ってもないことや、いらぬ一言をこぼしてしまうことにも繋がります。

自身の身体と対話して、明日にむかって軽やかになれる今日でいたいです〇

 

のせるみ