うつしき

20歳の時の夢

今朝目覚めたとき、なぜだか20歳頃に描いたドリームマップが頭の中に浮かんでいた。

 

夢を見ていたわけではないけれど、今日担当のブログの中身を考えながら寝ていたから、

そんな私を見かねて誰かが脳内から引っ張り出しておいてくれたのかも…

 

そのドリームマップには、5年後だったか10年後だったかの目標のひとつに
「身の回りに置くもの、身にまとうもの、口にするものすべて目に見える人のものにしたい」と書いてあった。
普通もっと大きな夢を描くものかもしれないけれど、私のそれはなんとも小さく、しかしそこへの辿り着き方は検討もつかない途方もないことで、
当時書きながら困ったことを覚えている。

 

そして今、すべてではないけれど、随分とその夢に近づいていることに気が付きとても驚いた。
そうか、この状態は願っていたことだったんだと自分でも不思議に思う。

なぜ「身の回りのすべてを目に見える人のものにしたい」と思ったのか?
届くべきものが届くべき人へ届かない既存の流通や資本への違和感と、目に見える人たちへ投票したいという気持ちがあった。

 

もちろん毎日完璧にすべて!なんて、逆に不幸せになるような縛り方を自分にはできないけれど
だいたい食べる野菜や魚、だいたい着る洋服、だいたい毎日使う器やカップ、だいたいのあれこれ…
だいたいのものは、目に見える人たちのものになっているなと思う。

 

「目に見える」には種類があって、直接受け渡してもらえる距離感のひともいれば、誰かや店を介して受け取る距離感のひともいるけれど、
買うことに限定して言うとすると、きっと大切なのは「その人を応援したい」と思ってお金を使えるかどうかということ。
ただ単純にそんなことでお金を使っていけたらいいなと思う。

いま世間には、「生産者と消費者をつなぐ」とか「ストーリーや背景を伝える」とかそういうことが流行として溢れていて、
もしかするとその中には、純粋なそれと不純なそれが存在しているかもしれない。
しかしその純も不純も証明のしようや真実はなくて、たぶん、それを利用する側が持つ感覚が全てなんだと思う。

 

果てしなく遠い道のりにみえても、願えば、おのずとそのように未来がつながっていく。

  

だから、自分の目で見て、話を聞いて、違和感がないかどうかを確認することは大切だなぁと思う。

 

スタッフの立場として書くと厭らしいけど、お客さんだったときの私を振り返ると、
うつしきという店は私にとって数少ない「純だと感じる仲介者」だったなぁと思う。

 

そしてその想いはいまもなお裏切られることなく、むしろもっと強い確信に変わっているからうれしい。

 
のせるみ