処暑の候
慌ただしく過ごした今年の夏は終焉を迎え、小学生たちは学校生活が始まりました。
7月の終業式前日に長男、長女と一緒に宮崎駿監督の”君たちはどう生きるか”を鑑賞。
小学生チームの夏休みが始まったのがつい此間かのようです。
うつしきが在る宮若市では宮若納涼花火大会が4年振りに行われ、
子ども達に ”行きたーい!、りんご飴食べてみたい!” とせがまれ行ってきました。
空中に放たれた菊を模した花火を見て、小さな頃、家族でスイカを食べながら見た記憶が蘇ってきました。
胸を叩かれたようにドスンとくるあの音に怖がっていた遠い記憶。
我が家のおチビさんたちは花火よりも食べ物の取り合いに一生懸命でしたが、音には終始びっくりしていた様子。
そんな中、小学6年生の長男が ”来年は友達と自転車で来ようかな” と呟いていたので
そっか、もうお祭りに行くのはこれが長男とは最後なのかもな、と少し寂しく思うのでした。
子どもを授かってから “子どもは社会に返す” という自覚で育てているものの
いざ現実味が増すと急に涙ぐんでしまう。
その心と対峙するにはどうすればいいのだろうかという問いがずっとありました。
ずっとあったけれど
ある時、サンスクリット語やヒンディー語には、欧米諸語にみられる、have(~を持つ)という語がなく、
この”持つ”に相当する語はヒンディー語では”ケ パース “といって”その傍ら その側 “にいる、存在するということを知り
わたしの心が軽くなったのを覚えています。
子どもは自分のもの。という意識がどうしてもあって、
それはとても大切にしてるからこそ生まれる感情からの所有概念だと思うのですが、
別の人格であって、誰のものでもない。ただ縁あって側に居る。
ただそれだけのことなのだなと腑に落ちた瞬間でもありました。
さらに”君たちはどう生きるか”を見ていたら、決められてここに家族として居るのだなと
自然と”魂”の存在も受け入れるようになっていたのです。
小学生二人がわたしの実家新潟で過ごした夏の1週間
“おにいちゃんたちはどこにいるの?”と尋ねる2歳の娘は不思議に思いながらも居ない時間を過ごしていく。
子どもリーダー長男が居なくても、ちびっこ達3人で和歌山ensに行ったときは
次男が”僕が一番上のにいちゃんだ!”と言って張り切っていた。
その言葉の中には皆ぼんやりと長男・長女の存在があって、ここに居ないけれど、居る感覚がどことなくありました。
小さな頃の記憶を思い出すのと同じように過去と今は繋がっていてそして未来へ向かう。
この先、皆が独り立ちしていっても、きっとわたしの側らにはいつもいるんだと思います。
それでもきっと送り出しだ日はこっそり泣くでしょう…
夏休み最終週は長男長女と滝へ
小学校1年生の時に連れて遊んでいたこの場所で、その頃とたいして変わらない遊び方をしていたけれど、
すっかり、足がついて泳ぎも上手くなって小さい妹を気にかけていた。
ほ~んと、いつのまにやら親の知らないとこで大きくなっているんだから、
それぞれの人生の舞台を全うして欲しい。そう願うばかりです。
こうやって母親が一生懸命心の整理をしていたって
長男は自分の足で色々なところに行ってみたいようで、夜な夜な自転車、はたまたバイクのことまで調べている。
かつてのわたしが雑誌を見て東京に憧れていたように。
そうそうそれでいいんだと
そんな感じでいつもより子どもたちのことを多く考えていた夏でした。
季節が変わり
秋分の日9月23日からは花月日の帽子の秋冬展がうつしきで始まります。
夏の旅ですっかりくたくたとなった花月日の帽子を大ちゃんが直してくれて更に愛着が湧いたこの頃。
秋冬の装いにもお一つ帽子をどうぞ。
夏の思い出話をお聞かせにどうぞお立ち寄り頂けましたら嬉しいです。