手仕事がせいかつで、せいかつが手仕事

庭の蕗の薹の花が咲いた。
今年こそは、蕾のうちに天麩羅にしたり、蕗味噌を作ろうと思っていたのに、
ほんの少し意識を向けていない間に、美しく花が開いていた。
子どもの頃は、蕗を美味しいなんて思っておらず、
母との山菜取りは退屈でしかたなく、何より、その日の夜ご飯が憂鬱でした。
母にとってのご馳走は、わたしにとって食べたいものがひとつもない食卓だったから。
なのに不思議。
今はその愉しみも、美味しさもわかるようになりました。
子どもの頃って、
親がしていることが「普通」で、そこにあるものが「当たり前」。何も思わない。
それがせいかつであり、
その積み重ねが、暮らしという風景になっていくのだと、大人なって実感します。

母と山菜取りに行った帰り、よく母の祖母の家に寄りました。
祖母は大抵、縫い物をしていたのですが、わたしたちが来ると、手を止めて、
漬物と煎茶、そしてセロファンに包まれたゼリーを菓子受けに入れて出してくれました。
でもわたしはゼリーよりも、たくあんと煎茶の組み合わせが断然好きでした。
祖母が着物を縫う針子だったと知ったのは、わたしが結婚した後のこと。
長男が生まれたとき、はじめて浴衣を手縫いで教えてもらいました。
梅干しの漬け方を習ったのも、そのときです。
祖母は生活のために針を持っていて、
仕事と生活が同じ場所にあり、
手仕事は生活であり、生活そのものが手仕事だったのです。
一方、孫のわたしはせいかつをありのままに見つめるために、
ここから社会や世界を見ていくために刺し子をしているのだと思います。
祖母とは違う場所にいながらも、
同じように針を持ち、手を動かしている。
祖母が着物を縫う時間に比べたら、
わたしの刺し子の時間なんてほんのわずか。
端切れを重ね、ただ一本の糸を刺しているだけ。
生活のためではないけれど、自分が自分でいるために必要な時間。
そういえば、家族の誰も「何しているの?」と聞いてこない。笑
料理をしているときと同じくらい、その姿が当たり前の景色になっているなら、少し嬉しい。
かつてわたしが祖母の家を訪ね、縫い物をしている姿をあまりにも自然な風景として見ていたように。
「手仕事」と言うと大袈裟だけれど、せいかつの中で当たり前のように手を動かし、
何かをつくることはやはり大きな喜びにつながると思う。
それがひとつでもあれば、この先も自分を生きていこうとする根っこのようなものになる気がしています。

昨年開催した、わたしたちが持つ、二つの手の可能性を学ぶ
岡本よりたかさんとあやさんによる講座「つちとて」。
共に皆さんと学び、わたしたちが一番わたしたちらしくなるきっかけをいただきました。
ずっと辞めていた刺し子も、調味料づくりも、小さなかたちでせいかつに戻ってきています。
今年4月から始まる「つちとて」も今から楽しみで仕方ありません。
野菜の作り方をただ教わるだけでもなく、シャツを縫うだけでもない。
それぞれが自分のせいかつを見つめ直す、少し不思議な時間になるのではないかと思っています。
お申し込みが始まりましたので、ご興味のある方はぜひご参加ください。
そういえば今年は、蕗の薹を食べそびれてしまいました。
でも、こんなに花をよく見たのは初めて。
可愛らしくて、庭に咲く姿もいいなと思っています。
今週も佳き佳き1週間を⚪︎
