あいだを生きる
yasuhide ono

世界は、いつも二つのもののあいだで揺れている。
はっきりとした境界線があるように見えて、実際には、その多くが滲んでいる。
あいだ。
それは曖昧で、定義しづらく、居場所としては少し不安定だ。
けれど、生命の気配はいつも、その不確かな場所に宿っている。
時間は、過去と未来のあいだにある。
今という瞬間は、掴もうとした途端にほどけてしまうが、
それでも私たちは、その連なりの上でしか生きられない。
空間もまた、内と外のあいだにひらかれている。
家と庭、部屋と風景。
縁側に座ると、そのことがよくわかる。
完全な内側でもなく、完全な外側でもない場所。
そこでは、靴を履いたままでも、裸足でもいい。
声を出しても、黙っていてもいい。
人間という存在そのものが、あいだの生き物だ。
動物の名残を体に抱え、
神を夢見る想像力を頭に宿す。
理性と本能のあいだで迷い、
意識と無意識のあいだで選択を重ねる。
だから私たちは、ときどき不安定になる。
どちらにもなりきれない。
どちらにも属しきれない。
しかし、その宙吊りの状態こそが、人間の自然な姿なのかもしれない。
天と地のあいだに、気候が生まれる。
昼と夜のあいだに、薄明がある。
生と死のあいだに、物語が紡がれる。
すべては、きっぱりと分かれた世界ではなく、
緩やかに重なり合う層として存在している。
縁側的生き方とは、
どちらか一方にあえて決めきらない姿勢のことだと思う。
世の中はあまりにも白黒を付けたがる空気が蔓延している。
急がず、構えすぎず、
内にも外にも開かれている状態。
完全に社会に呑み込まれることもなく、
完全に孤立することもない。
働くと休むのあいだ。
考えると感じるのあいだ。
語ると沈黙のあいだ。
そこに身を置くと、世界は敵でも舞台でもなくなる。
ただ、行き交うものとして立ち現れる。
縁側に座っていると、
鳥の声が遠くで鳴り、
誰かの足音が近づき、
風が通り抜ける。
何かを成し遂げなくてもいい時間。
意味を決めなくてもいい瞬間。
あいだにいるとき、人は最も人間らしい。
選ばないことを選び、
留まることを肯定し、
変わり続けることを許す。
すべては、あいだである。
だから世界は、こんなにも脆く、こんなにも豊かだ。
縁側のような場所に、
もう一度、身体を預けてみる。
そのとき初めて、
生きるという行為が、
闘いではなく、呼吸に近づく気がする。
あいだに生きる。
それは、世界と争わずに、
世界に触れ続けるための姿勢なのだと思う。

縁側とか軒下とか、土間、障子、暖簾などの曖昧な境界が好きだ。
完全な外でも内でもない空間。
はっきりと区切られてはない少し頼りない紙で区切られた空間。
土足で家の中に入れる空間。
こうした一昔前の日本にあった曖昧な領域が少なくなっている。
それが脳内においても曖昧さを排除しようという動きに繋がっているのではないだろうか。
ゴールを目指す道中の寄り道こそが生の醍醐味だと思う。
僕はこのはっきりとしない曖昧領域を大切に育てていきたい。
さて、再来週からは自分にとっては今年初となる展示です。
しかも、うつしきという自分の空間での展示です。
今回の展示では、方々から喫茶で友人たちに協力していただきます。
それぞれが持つ透明と透明が重なり合い、そこに多様な色が生じていく。
そんなカラフルな景色をこの先創っていきたい。
では、今週もハッピーラブレボリューションな一週間を♡
