寄り道の途中で
yasuhide ono

ここ最近、十数年という月日のなかで重ねてきた出会いを、もう一度振り返るような展示や企画が続いている。
特に意識していたわけでもないのだけれど、不思議とそうした機会が重なっている。長いこと会っていなかった人と再会したり、かつて別々の場所で出会った人たちが、今になって同じ場所に集まったり。
人との縁というのは面白いもので、こちらの都合とは関係なく、思いがけないところで結び直されることがある。
先月開催していた石原稔久展もそうだし、先週まで開催していた「tribal market vol.1」も、そんな時間のひとつだった。
もう一週間が経とうとしているのに、なんだか昨日のことのようで、今もその余韻のなかにいる。
TANEの二人とは、これまでもうつしきで何度となく食事会や学びの場を開催してきたけれど、huuhuuのアイちゃんと一緒に企画をするのは今回が初めてのこと。

アイちゃんと出会ったのは、今から10年以上前。タイ北部の街、チェンマイでのことだった。
当時はうつしきを始めてまだ半年ほど。お店を始めてから初めての買い付けだったと記憶している。
右も左もわからないまま、慣れない土地を歩き回り、目に留まるものを手に取っては、これは日本で紹介できるだろうかと考えていた。
アイちゃんも、まだ今の仕事を始めたばかりの頃だったと思う。
あの頃の自分たちに、11年後には福岡の田舎で一緒に仕事をしているよと伝えたところで、きっと誰も信じなかっただろう。
そもそも11年後に何をしているかなんて、自分自身が一番わかっていなかったのだから。
そんなアイちゃんは、今も一年の半分をチェンマイで、残りの半分を日本で過ごしているという。
日本の冬が厳しくなる12月から2、3月頃まではチェンマイへ。さらに日本がうだるような暑さになる8月も、チェンマイの方が過ごしやすいので向こうで暮らすらしい。
年に二度の販売会を中心に仕事を組み立て、季節に合わせて暮らす場所を変える。
なんとも理想的な働き方ではないか。
日本の夏と冬をうまいこと避けて暮らしているなんて、渡り鳥もびっくりである。
もちろん、その暮らしを成り立たせるためには、見えないところでの苦労もあるのだろうけれど、仕事のために暮らしを犠牲にするのではなく、自分の望む暮らしに合わせて仕事の形をつくっていく。
そういう選択肢があることを、改めて教えてもらった気がした。

今回の展示では、タイの古い道具や手仕事の品々がうつしきに並んだ。
長い時間をかけて人の手に馴染み、使われることで形を変えてきた道具には、つくり手の意図だけでは語りきれない魅力がある。
美しく見せようとして生まれたものばかりではない。必要だからつくられ、使いやすいように工夫され、壊れれば直され、そうして誰かの暮らしを支えてきたもの。
そこには、作品としての完成度とはまた違った、人間の営みそのものの面白さがある。
改めて、暮らしの道具っていいなと思う四日間だった。
会期中は、久しぶりに顔を出してくれた人もたくさんいた。
あちこちで会話が生まれ、笑い声が聞こえ、終始賑やかな四日間だった。
なかでも印象に残っているのは、今回の企画を一緒につくってくれた女性たちの軽やかさだった。
今回のTANEの食事会は「旅の記憶」がテーマだったこともあり、みささんの思いつきから、みんなで旅のエッセイを書いてみようという話になった。
それぞれがタイ、ネパール、インドで見聞きしたことや、旅先で感じたことを400字ほどの文章にしてみる。
もともと予定していたわけでもないアイデアだったけれど、これが思いのほか面白かった。
同じ旅というテーマでも、何に目を留め、何を感じ、どんな言葉で綴るのかは人それぞれ。文章には、それぞれの人柄やものの見方が自然と表れる。
読んでくれた人たちからも「すごくよかったよ」と声をかけてもらった。
それだけでも、やってみてよかったと思う。
こうした思いつきを面白がり、まずはやってみようと自然に動き出せるところが、なんだかいいなと思った。
TANEの二人も、huuhuuのアイちゃんも、それぞれに自分の仕事を持ち、長い時間をかけて独自の活動を続けてきた人たちである。
扱っているものも、仕事の仕方も、暮らし方も違う。
けれど、一緒にいると、誰が中心になるでもなく、それぞれが自分の役割を楽しみながら、自然とひとつの場ができあがっていく。
誰かが誰かを引き立てようと気負うわけでもなければ、自分の存在を必要以上に主張することもない。
互いの仕事を面白がり、違いをそのまま受け入れている。
その姿が、なんだかとても新鮮だった。

というのも、ここ最近、自分のなかで少し引っかかっていたことがあったからだ。
工芸や古物、ギャラリーの世界に長く身を置いていると、知らず知らずのうちに、誰が何を扱い、どんな作家を紹介し、どれほど独自の美意識を持っているかということが気になってくる。
もちろん、そこには長い時間をかけて培われた経験や審美眼があり、互いに刺激を受けながら切磋琢磨していく面白さもある。
ただ、ときにはそれが、誰の表現が優れているか、誰がより面白いことをしているかという、目には見えない競争になってしまうこともある。
展示を開催すれば、転売目的の購入をどう防ぐか、その対策と抜け穴を探す人たちとのいたちごっこに頭を悩ませることも増えた。
好きで始めたはずの仕事なのに、いつの間にか、ものそのものの魅力とは別のところにずいぶんと気を取られている。そんなことに少し疲れていた時期でもあった。
それに比べて、今回の彼女たちの仕事ぶりには、誰かと比べて自分の立ち位置を確かめようとするような気負いが、少なくとも自分には感じられなかった。
自分の好きなことを仕事にして、それぞれの暮らしを楽しみながら、面白そうなことがあれば一緒にやってみる。
そこには、競争よりも協奏という言葉が似合う気がした。
もちろん、それぞれ仕事を続けていくうえで、いろいろな苦労や葛藤を抱えているのだろう。
ただ、それを必要以上に深刻な顔で背負い込まず、楽しそうに仕事をしている。
誰かより優れていることを証明しなくても、自分の仕事に誇りを持つことはできる。
誰かと競い合わなくても、互いに刺激を与え合い、より面白いものを生み出していくことはできる。
そんな当たり前のことを、今回の四日間で思い出させてもらった気がする。
大好きな井上雄彦さんの漫画『バガボンド』に、「殺し合いの螺旋」という言葉が出てくる。
強さを求めて人を斬り、さらに強い相手を求め、終わりのない争いのなかに身を置いていく。
あの物語を読んでいた若かりしあの頃、自分もそんな螺旋から降りたいと思っていた。
人の多い都会を離れ、福岡の田舎に移り住み、自分たちの手でお店をつくった。
誰かと同じ土俵で競い合うのではなく、自分たちがいいと思うものを、自分たちの速度で紹介していきたい。
そう思っていたはずなのに。
気がつけば、今度は「誰の表現がイケているか」という、なんとも平和そうでいて厄介な螺旋に、片足を突っ込んでいる自分がいた。
刀を振り回すことはなくなったけれど、代わりに美意識を振り回していたのかもしれない。
これでは、わざわざ田舎に移り住んだ意味がないではないか。
もっとも、競争そのものが悪いとわけではない。
誰かの表現に刺激を受け、自分ももっといいものをつくりたいと思う。その気持ちがあるからこそ、技術も感性も磨かれていく。
ただ、いつの間にか自分の好きなものを見つめる時間よりも、他人が何をしているかを気にする時間の方が長くなってしまったら、少し考え直した方がいい。

そもそも、自分はどうしてそんな競争に加わろうとしていたのだろう。
そんなことを考えているうちに、もうひとつ、最近になってようやく腑に落ちてきたことがある。
自分はどうやら、一つのことだけを突き詰めていくことに向いていないらしい。
昔から、ひとつの分野に没頭し、その道を究めようとする人に憧れてきた。
黙々と一つのことを何年も続け、技術を研鑽する職人や、イチローのような確固たる哲学を持って野球をする選手だったり。
工芸なら工芸、骨董なら骨董。ファッションでも現代アートでも、長い年月をかけてひとつの世界を深く掘り下げている人は、やっぱり格好いい。
自分もそうありたいと思う反面、どうにも興味があちこちへ飛んでいってしまう。
石を拾っていたかと思えば、古道具に夢中になり、服のことを考え、畑を耕し、走ったり山に登ったりしている。
最近も変わらずランニングに登山、トレイルランニングと、ますます身体を動かすことに夢中になっている。
一応、来年もネパールに石を拾いに行くための体力づくりという、もっともらしい理由を用意しているのだけれど、そんな言い訳がなくたって、きっと走っているのだと思う。
うつしきの企画にしてもそうだ。
作家の展示があれば、料理を囲む食事会もある。演奏会から手相鑑定や星詠み、畑仕事に醤油づくり、瞑想の会まで開催している。
こうして並べてみると、いったい何屋なのかわからない。無節操といえば、まったくその通りである。
けれど、その全部に興味があるのだからしょうがない。
これまでの自分は、そんな性質にどこか劣等感を抱いていたのかもしれない。
ひとつのことを深く掘り下げられない自分は、何かが足りないのではないかと。
けれど最近は、少し違うように考えるようになった。
ひとつの井戸を深く掘り続ける人もいれば、あちこちに流れる水脈を探し、それらをつなぎ合わせていく人もいる。
どちらが優れているという話ではなく、単に得意なことが違うのだろう。
自分の場合、ひとつひとつの物事を徹底的に極めることよりも、異なる世界のあいだに思いがけないつながりを見つけることに、どうやら面白さを感じているらしい。
石と旅、工芸と暮らし、身体を動かすことと自然のなかに身を置くこと。
一見すると関係のないもの同士が、ある瞬間にひとつの線でつながる。
その瞬間が好きなのだ。
専門を突き詰めた格好いいお店は、世の中にたくさんある。
それは、それを得意とする人たちに任せればいい。
自分は自分で、興味の赴くままに歩き回り、出会ったものを持ち帰り、また別の何かと結びつけていけばいいのだと思う。(そもそも、他の人にはなれないですからね。)
そして、そんなふうに考えると、うつしきのこれまでの歩みも、さまざまな出会いが重なり合うことで形づくられてきたのだと気づく。
それぞれが別の場所で暮らし、別の仕事を続けながら、あるとき再び道が交わる。
その間には、数えきれないほどの出会いや別れがあり、そうした時間の積み重ねが、今の自分たちをつくっている。
人との縁というのは、必ずしも近くにいることで育まれるものばかりではない。
遠く離れたり、しばらく会わなかったり、ときには忘れかけていた頃に、また顔を合わせる。
そうして再会したとき、以前とは違う関係が生まれることもある。
これから先も、そんな出会いを重ねていけたらいい。

さて、そんな余韻に浸っている間もなく、今週末からはうつしきにて陶芸家、清水志郎・やえ展が始まります。
うつしきでは志郎さん、やえさん二人での夫婦展という形での開催は今回が初めてのこと。
喫茶室では、これまた出会ってから13年になる和草さんに喫茶をお願いしています。もう石米さんとの思い出を語るには語りきれないほどたくさんあり過ぎる。

そして11月中旬には、yasuhide onoとして北海道長沼町にある「にたきとすまう」にて、inとの二人展を開催します。
北海道は自分の生まれ育った土地でもあり、地元の帯広との縁がこうして再び結ばれていくことにも、不思議な巡り合わせを感じている。
思い返せば、今の仕事も暮らしも、初めから計画していた通りに進んできたわけではない。
そのときどきの興味に引っ張られ、出会った人に誘われ、面白そうな方へと寄り道を繰り返してきた。
ずいぶん遠回りをしているようで、振り返ってみれば、それなりに道らしきものができている。
きっとこれからも、あちこちに気を取られながら歩いていくのだろう。又八的人生ですね(またバガボンド)。
ひとつのことを究める人生も格好いいけれど、寄り道ばかりの人生も、なかなか捨てたものではない。
何より、その寄り道の途中で出会った人たちと、十数年後にまた一緒に笑っていられるのだから。
それだけでも、十分に面白い人生だと思う。
そんなこんなで、毎度のことながら長くなってしまいました。
ではでは、今週もラブリーでハッピーな週の始まりを♡
