おはようございます。
春、春、なんて言いながら、我が家の温度計はここ数日10度を超えません。
3月の中旬に一度温かくなったタイミングで気持ちはすっかり先走り、家も衣も春モード。外に出たほうが温かいくらいなのに、冬モードを脱いで着なおそうとしない私の手は、この記事を書いている今とてもかじかんでいます(笑)
でも、この土地で寒さが4月上旬まで続くというのはとても嬉しいことで、元々のリズム。「有難う」と何度も心が発します。
さて今日のブログは、写真で季節の移り変わりをお裾分け。
束の間今日の私は、息継ぎをする日だと決めた(自我ではない意志がそう言う)のです。
昨日だか今日の明け方だったか。
例えるとすると、立ち眩み現象みたいなものが起きている(起きかけている)と自分で自分のことを内観します。
ここ数週間、とある臓器はずっと痛みを教えてくれていたけれど、健やかな心はそれとも一緒に仲良くやっていけていました。
病みや痛みも薬という意識と、小さな痛みくらいで立ち止まれないという思考。
このことは大そうな話ではなくほとんどの人にとって日常的な話。
日常の些細なことはほとんどが「大丈夫」で、生きるとは痛みとともに在ることですが、その見極めは非常に大切なのかもしれません。
ときに健康な心身というのは、頑張りすぎるものです。
私の話ではなく、あなたの話。
健やかだと思っていた身体が表情を歪ませる。
健やかな内面がグラりと揺れる。
鶏が先か卵が先か分かりませんが、私たちはそういう仕組みに成っている。
大丈夫、大丈夫は本当に大丈夫なんだけど。たまに立ち眩む。
そのときその現象がなにを伝えてくれているのか、メッセージはたくさん。
なんてこと…考えてしまう私ですが、今必要なことは
なにも考えないこと。考えないとさえ意識しないくらい気持ちよく。
ただただ地球の回転、日と影の移ろい、季節の廻り、風と潮に身を委ねること。
といっても、人間だもの、考えてしまうのですけどね。楽しいし。
この野草なんだろう?とか、この花の名前は?とか。
あれをしたいなこれをしたいなとか。
でも、考えない。
そんな知的欲求さえも、未来への思考も、止むことなき仕事も、他者との関わりで生じることも、なにもかも手放して、ただ身体を開いて、漂うことが私を呼んでいます。
あくまで束の間。それも大切。されど束の間は永遠のように広がっている。
息継ぎのような限られた時間、その深淵に触れに行くこと自体が手当てとなるはずです。
いのちのように。
あまりツラツラどんどん書くと意味がないので、このあたりで。
ここ数ヶ月の草木の姿と、今日の世界に、生きなおす呼吸をサポートしてもらおう。
「しっかり吐くことから始めます。
吐ききったと思ったら、たっぷり吸いこんで。」
新月と満月の瞑想会ではこの呼吸から始めますが、呼吸するだけで泣けてくることがたまにあります。
もしかすると、そんな日は、明日のために。
ゆっくり、ゆっくり、かけがえのない一日を。
のせるみ