静かな巡礼

小野泰秀

3月、4月と訪れた旅先では、歩くことの意味をいま一度考えた機会であり、その時の思索がずっと身体のどこかに残っている。
歩く──それはあまりに日常的なことで、つい意識から外して行為をしてしまうのだ。
けれど、ただ歩くということにこそ、考えごとがふと浮かび、心がほどけていくような時間が潜んでいる。いつからか、歩くことを「移動」ではなく「巡礼」のように感じるようになった。足を運ぶことで、自分の内側へ、そして外の世界へと静かに繋がっていく。そんな感覚を確かめるように、ある一冊を手に取った。
『ウォークス 歩くことの精神史』という本だ。「歩く」という行為に焦点を当てたこの一冊は、予想をはるかに超えて、多くのことを教えてくれた。歩くことが、ただの移動手段ではなく、思索や詩作、宗教的体験、都市と人間の関係にまで深く関わっているということ。歩くことは、人間の精神史そのものに組み込まれた営みなのだ。
たとえば、車や電車での移動が「目的地へ早くたどり着く」ための手段だとしたら、歩くことは「今いる場所をじっくり味わう」ための行為だ。『ウォークス』は、この違いを丁寧に掘り下げながら、歴史の中で歩く人びとが何を見て、何を感じていたかを追っていく。
歩くことは、感覚の編集であり、記憶の再編である──そんなふうに、私は少しずつ思うようになった。
読んでいてとても印象に残ったのは、歩くことが「風景を読む」行為だという視点だった。足元にある地面の起伏や、小石の位置、風の向き、草の擦れる音。そんなささやかな要素が、歩いているうちに私の感覚を呼び覚まし、いつの間にか思考が始まっている。草がざわめく音が誰かの囁きのように聞こえることがある。小石の並びが、封印された手紙のように感じられることもある。風景がただの背景ではなく、語りかけてくる存在へと変わっていく。
この本には、詩人ワーズワースやルソー、ベンヤミン、そしてビート・ジェネレーションの歩行詩人たち──ゲーリー・スナイダーやアレン・ギンズバーグの名も登場する。彼らにとって歩くことは、現代社会への違和や内なる問いを表現する手段だった。特にスナイダーにとって歩行は、仏教的な実践であり、自然との対話でもあった。山を歩き、大地と交わることで、自分が自然の一部であることを確かめる。その思想は、後に「ディープ・エコロジー」という自然中心の倫理観へと結実していく。
スナイダーにとって歩くことは、自然と精神のあいだに橋をかける行為だった。言葉の前に、彼は歩いた。そして歩いた後に、その風の中から言葉を拾ったのだ。
スナイダーの歩行は、日常の中にこそ聖性を見出す「巡礼」だった。私もまた、庭のハーブを見に行くとき、子どもと川沿いを歩くとき、あるいは最近まで愛犬うめと歩いた道に、その静かな祈りのようなものを感じていた気がする。
歩いていると、風景が語り出す。咲き始めた花、道端の草の擦れる音、風にそよぐ葉、遠くに広がる空。そうしたひとつひとつが、記憶の鍵を開き、深くしまわれていた感情やアイディアをそっと引き出してくれる。
そして不思議なことに、そうした歩く時間のなかから、しばしば仕事のインスピレーションも立ち上がってくる。新しいアクセサリーのデザイン、展示の構成、素材の組み合わせ、言葉のリズム、机に向かっているときには出てこなかった感覚が、歩いているうちに自然と浮かび上がってくる。頭で考えるというよりも、身体が自然と拾い集めてくるような感覚だ。
歩くことは、私にとって「編集」にも似ている。歩くたびに目にするもの、耳に入る音、浮かんでくる感情や記憶。それらを一つずつ拾い上げ、心の中で並べ替えていく作業。何に注目し、どこを省き、どこに余白をつくるか。その繰り返しが、アクセサリーの制作や文章の構成にもそのまま現れている気がする。素材をどう生かすか、どの組み合わせが響くか──私は歩きながら、すでに手を動かしはじめているのかもしれない。
うめがいた頃、歩くことは日々の習慣以上のものだった。朝、玄関先で目が合い、リードを持って外に出る。静かな呼吸、風のにおい、彼女の歩調に合わせるうちに、自分の心も整っていった。
犬と歩く時間には、言葉では伝えきれない感情の層がある。うめと共に歩いた記憶は、今でも身体のどこかに刻まれていて、あの道を歩くたびに蘇ってくる。風景と感情が折り重なる、その重なりの中に、日々の営みの深さがある。
私は、歩きながら過去を整理し、未来への考えを立ち上げている。都市の中を歩くときは、地形や建物のリズムを足元から感じ取り、田園の道を歩くときは、風や鳥の声に身体をひらいていく。歩くことで、私は内と外を同時に編集しているのだ。
歩いていると、言葉が形を持ちはじめる。呼吸が整い、思考がつながり、手の動きや視線が整っていく。書くこと、作ること、選ぶこと──そのすべての前に、私はまず歩いていたいと思う。
ただ最近は、その歩く道に、ぽっかりとした空白がある。
うめがいなくなってから、あの足音が聞こえない。リードの引かれる感覚も、草の匂いに立ち止まる姿も、もうそこにはない。不在という輪郭が、かえって彼女の存在を濃く思い出させる。
彼女がいなくなってからというもの、私の歩く道には音のない影が一緒に歩いている。けれどその影は、いちばん静かで深い場所から、私に語りかけてくる。
歩く──それは、どこへ行くでもなく、何かとつながり直すための営み。
自分自身と、自然と、時間と、そしてもうここにはいない誰かと。
その静かな旅のなかで、私はまた新しいひらめきを受け取りながら、今日も歩いている。
昨日まで開催していたeavam展に足を運んでくださったみなさま、本当にありがとうございました。
スキンケア用品という、うつしきでは少し異色ともいえる試みでしたが、いざふたを開けてみると、むしろ静かに、自然に、受け入れていただけたように感じています。肌に触れること、素材と向き合うこと、その根底にある営みは、これまで紹介してきたものと何ひとつ違わないのだと改めて思いました。
変わり続けること。 境界に立ち続けること。
そうありたいと、静かに歩きながら、また次の営みに向かっています。
次の企画は、うつしきでは3回目となる たなかひなこさんをお迎えし、学びの場をひらきます。
そして6月下旬には、陶芸家・河合和美さんによる初めての展示も予定しています。季節のうつろいのなかで、新しい出会いが静かに始まりそうです。
そうそう、今回のウェブサイトリニューアル後、最初の日記でもあり、少し操作に戸惑いつつ書いています。笑
黒曜石の指輪の受注、そして古道具のオークションは、明日6月3日(月)までとなります。気になる方は、ぜひこの機会にご覧いただけたらうれしいです。
それでは、今週も最高にラブリーでハッピーな週となりますように。