暮らしと道具のあいだに立つ
yasuhide ono

早いもので年内最後のブログ更新ということで、2025年をゆるりと振り返ってみる。
今年はお店が10周年だったということもあり、うつしきのweb siteをリニューアルしたり、駐車場を拡張したり、お店の前に敷石を敷き詰めたり、そして現在進行形で離れの改装を進めている。
私的なことでいうと、はじめてカンボジアとベトナムに行ったり、物置として使われていた納屋部分を子供部屋に改装したり、手縫いでパンツを作り、人生で初めての醤油を作りを体験したりと、マラソンに向けてラン活と少なからず変化があった年だった。
こうして並べてみると、それなりに動きのあった一年のようにも見える。
けれど、実感として強く残っているのは、「何かを大きく増やした一年」というよりも、「静かに整えていった一年」だった、という感覚だ。

2025年を通して、何度も自分に問いかけていたのは、「これは本当に必要だろうか?」という、とても素朴な問いだった。
それは商品や道具に限らず、習慣や考え方、時間の使い方に対しても同じだった。
便利さや効率を求めれば、選択肢はいくらでも増やせる。
けれど選択肢が増えるほど、暮らしは複雑になり、いつの間にか「使っている」のではなく「振り回されている」感覚に近づいてしまう。
今年は、その距離感をいったんゼロベースで測り直した一年だった。
その象徴的な出来事のひとつが、断捨離だった。
最初は、単純に物が増えすぎたと感じたから始めた。
けれど、実際に手を動かしてみると、これは空間の掃除というより、完全に「意識の再編集」だった。
なぜこれを持ち続けてきたのか。
なぜ手放せなかったのか。
ひとつひとつの物の背後には、安心感や不安、過去への執着、
「いつか役に立つかもしれない」という曖昧な期待が張り付いている。
物を捨てるというより、そうした感情に区切りをつけていく作業だった。
物が減っていくにつれて、部屋の中が静かになり、同時に頭の中のノイズも驚くほど減っていった。
余白が生まれると、人はようやく自分の声を聞けるのだと思う。

そういう意味でも、今年は「足す」よりも「減らす」「削ぐ」「磨く」という言葉が、自分の中でしっくりくるようになった。
足し算はわかりやすい。変化も目に見えやすい。
けれど、引き算には時間がかかる。
何が本質で、何が余分なのかを見極める必要があるからだ。
石を磨くときも同じで、最初から輝きが見えるわけではない。表面の泥や曇りを落としながら、少しずつ手をかけていくうちに、ある瞬間、内側から光が返ってくる。
暮らしも、人も、道具も、本質はいつも奥にある。
削がれた先にしか見えないものがある。
今年はそのことを、身体感覚として学んだ一年だった。

もうひとつ、2025年を象徴するキーワードがあるとすれば、「遅さ」だと思う。
何かとスピードが求められる時代の中で、あえて一歩スピードを落とすこと。
手仕事や発酵、畑仕事のように、こちらの都合では進められない営みに触れることで、自分の時間感覚が少しずつ矯正されていった。
速さは成果を生むけれど、遅さは深さを生む。
すぐに結果が出ないからこそ、過程に目が向き、その過程そのものが豊かになっていく。
遅さを受け入れることは、不便を引き受けることではなく、暮らしの解像度を上げることなのだと心の底から思えるようになったのです。
手縫いでのパンツ作りや醤油づくり、畑仕事を通して、「自給」という言葉の意味も、少しずつ変わってきた。
すべてを自分で賄うことではなく、自分の手が、暮らしのどこかにきちんと関わっていること。それだけで、日常の手触りは大きく変わる。
自分で作ると、時間を急かせないことを前提にせざるを得ない。
発酵も、作物も、待つしかない時間を抱えている。
その「待つ時間」が、思っていた以上に豊かだった。
何もしないように見える時間の中で、感覚が研ぎ澄まされ、暮らしと道具が、再び対話を始める。
自給とは、暮らしとの関係を結び直すことなのだと感じた。

来年もきっと、派手な変化は少ないかもしれない。
それでも、暮らしと道具のあいだを丁寧に歩きながら、
遅さと余白を味方につけていきたい。
そして、なにより今ある目の前の一つ一つのこと、日々使っている道具や、交わされる会話、変わらず店に足を運んでくれる人たちに感謝しながら、一度しかないこの人生を精進していきたいと思うのです。
あらためて2025年も本当にお世話になりました。
おかげさまで最高な一年となりました。
また来年もラブリーでハッピーな一年となりますように。
2026年もどうぞよろしくお願いします。

