おのさんぽ in Nepal vol.1 ~ vol.4
yasuhude ono

おのさんぽ in Nepal vol.1
14時の飛行機に乗り、香港を経由して、カトマンズに着いたのは現地時間の夜23時過ぎ。アライバルビザを無事取得し、空港からタクシーで宿のあるタメルを目指し、チェックインしたのは日付を跨いだ頃だった。
翌朝、5時半にガイドが迎えにくることや、今回ネパールのあとインドに行くので、その荷物をトレッキングに持っていくには少し重いので、その預け荷物を仕分けしたりとなんだかんだ小忙しい。
ただ、久々のネパールということもあって、アドレナリンが出ているのか、短眠にも関わらず、翌朝は起床時刻の1時間近く前に目が覚めてしまう。身体を点検するも意外と疲労は少ない。
ひとまずシャワーを浴びようと蛇口を捻るも、なかなか水は温かくならず、仕方ないのでそのままさっと水浴びしてあがる。
出発まで家族とテレビ電話をして、日本の普段の我が家の朝をスクリーン越しに眺め、いつもなら自分もそっち側にいるはずなんだけどなぁと、家族に対してどこか遠い世界を鑑賞するような感覚を持つ。この帰属意識が薄まっていくような、反対に濃くなるような感覚にいつも旅のはじまりを覚えるもの。
今回の旅のガイドを務めてくれるサニッシュが宿まで迎えに来てくれて、バススタンドへ一緒に移動する。29歳の彼は2日前まではアンナプルナベースキャンプにいたとのこと。そこからすぐ私の鉱物採取トレッキングに同行してくれる。英語も話せるので意思の疎通が取れるという意味でも一安心。
出発まで少し時間があるので、露天に入りチャイを頂く。この味がたまらなく旨いのだ。今回の移動はローカルバスということもあり、乗客は私以外はすべてネパール人。数人でシェアするジープでの移動より時間は掛かるのだが、その分この国の現在の様子を知るという意味では大きい。そして移動コストがかなり安く抑えられる。
途中、立ち寄った食堂で、この日、ネパールに入って初めての食事、ダルバートを頂くことに。これこれ!なんでこんなにも美味しいのだろうか。プレートの中にダルやアチャール、サークなどのさまざまな味が重なっていく。これでお替わり自由とか信じられない。ただ、この段階でまだ11時前後。
今日の目的地であるガトランという村にたどり着いたのは18時近くだった。舗装のされていない峠道。走ったことがある人はわかると思うが、上下左右に動く悪路に車酔いになる人もちらほら。12時間近くバスに乗っていたこともありお尻が痛い。
標高2200m近くにあるタマン族のコミュニティのあるこの村は、いわゆる現代社会とは良くも悪くも切り離されているように感じる。民族衣装に身を包み、仏教を信仰している。数日前まで資本主義社会が基本OSの世界にどっぷり浸かっていた身からすると、豊かさや貧しさという概念がないようにさえ感じられるのです。
ロッジの女主人もご飯を出してくれたあとは、羊毛をハンドスピンドルで撚っていて、手仕事と生活が切り離されていない様子が見えてくる。薪を窯に焚べ、湯を湧かす。そんな景色にタイムスリップしたかのような感覚を覚えるのです。
私は今回の旅路でなにを受け取りどう感じるのだろうか。
始まってまだ一日しか経っていないのに感じ入ることが多すぎる。
今日はここから標高を1000m上げて、ソムダンという村に移動する。そこは圏外の世界とのことだ。
デジタルデトックスというのは、あることが前提の上で見た視点である。ないが基本の世界に行くとどのように感じるのだろうか。今から楽しみである。

おのさんぽ in Nepal vol.2
ガトラン(2238m)から次の目的地のソムダン(3280m)に行くまでにクルプ峠(3730m)を超えなくてはならない。一度富士山近くまで登って、500mくらい降っていくなかなかハードなコースだ。今回の移動は主流な観光ルートではないため、道中の宿泊施設などは、エベレストベースキャンプやパンサン峠へトレッキングルートと違って選択肢はかなり少ない。その分、現地民の生活にグッと入り込めるという利点がある。
道中は見るもの全てが新鮮で、ヒマラヤ山脈の豊穣な大地がもたらす神聖な景色に目を奪われる。タマン族の暮らしは自然と根差した相互扶助の関係で成り立っている。棚田を開墾するときは、村の女性陣を呼んで、みんなで鍬で耕している。この際に、金銭は発生しないらしく、ご飯を振る舞い、また別の誰かが畑を開墾する際に手伝うとのことだ。困っているときはお互いさまという考えなのか。それともみんなが食べていくのに必死ともいえるのだろうか。自分たちが食べる以上のものを作って、溜め込んできたという歴史が、権力という上下を生み出したことを考えさせられる。
峠を登る3200mを過ぎた辺りで、すれ違うタマン族の方が、ここから先の道は雪が膝下くらいまで積もっているから、アイゼンなどの装備がないと厳しいという忠告を受ける。今回、雪山対策はほとんどしていない。重いのだけが難点だが、防水かつ足首のホールドにどれだけ助けられたかわからないgoroの登山靴に、トレッキングポールを駆使して登るしかない。ほどなくして、雪がちらほら山道に見え始め、それに伴い徐々に天候も雨や雹が降り始め、辺り一面を濃霧が包んでいく。標高が高くなるにつれ気温は下がり、汗冷えが体温を奪っていく。10歩進んでは息を整え、また10歩進んでは一休みを入れるという具合に全然前に進まない。追い打ちをかけるように高山病のせいか頭がずきずきと痛い。あぁ、荷物重過ぎたかなとか、山に対する準備が足りなさ過ぎたかなと、不安が心を埋め尽くしはじめる。こうして追い詰められた時の人間ほど弱いものはない。

なんとか頂上に着いた頃にはすでに満身創痍。ここからまだ4時間近く降りて歩くのかと先のことばかり考えてしまう。今を生きていない証拠ですね。付近にある風雪凌ぎの侘びな小屋にて、遅めの昼食を摂ることに。朝ロッジで作ってもらったゆでたまご2個とクッキーをいただく。あったかい食事が恋しいよと、好き好んでここまできたはずなのに、ないものをねだる愚か者とは私のことです。こんな状況でもガイドのサニッシュは冷静で、バッグパックの中の不要な荷物は自分のバッグに入れてくれたり、ネパール流のアイゼンの代わりだと靴下を裏返して登山靴に被せてくれる。こうすることで滑り止めになるという。非常に頼もしい。彼がいなかったらと思うとゾッとする。
雪のせいで以前歩いた人の足跡が見えない中、サニッシュの後をなんとか付いていく。滑りながらも徐々に高度を下げていく。おかげで頭痛もやわらぎ、雪のエリアを抜ける頃にはメンタル面もだいぶ回復した。そうなるとあとは目的地を目指して歩くのみ。朝8時半頃に出発し、到着したのは18時前。
こんなに書いているが、その内容は一日分のごく一部でしかないのです。毎日が濃く、洗礼を浴びています。

おのさんぽ in Nepal vol.3
昔、ルビーの採掘場があったこの村には、今は3軒しか人が住んでいない。それもトレッキングシーズンである春と秋の3ヶ月間ずつだけとのことだった。それ以外はもう少しだけ大きい隣の村に住んでいるという。ネパールの中でもマイナーなこのルートには、ほとんどハイカーはいない。日本人どころか、この数日の中で外国人とすれ違ったのはたった1人だけ。ネパール人のハイカーも3人しかみなかった。電波は当然なく、泊まった日には停電で、非常灯のみが灯っているという状態だった。カメラやスマホの充電もできないし、部屋に戻っても真っ暗だ。夕食にダルバートを頂き、ヘトヘトだったこともあり20時過ぎには即就寝。ただ、高山病のせいなのか、数時間に一度目を覚ましては寝るを繰り返す。ベッドに横たわっている時間の割に、回復は思わしくない。
ソムダン(3280m)からティプリンへの道もなかなかハードだった。パンサン峠(3850m)まで一度登り、そこから2200m近くまで下らなければならない。約600m登り、約1650m下るという初日よりも長いコース。朝8時前から登り始め、到着は最終的に19時を過ぎていた。

歩き始めは気力に満ちていた。見る景色のすべてが新鮮で、日本ではなかなか見られない珍しい鉱物や小さな水晶の結晶を見つけては拾うを繰り返す。こんな贅沢はないと、足取りも軽かった。それも3500m地点くらいまでのこと。じわじわと嫌な頭痛がする。日本から持ってきた酸素タブレットを口に放り込む。ごまかしながら進むも、パンサン峠頂上に着いた時には既に疲労困憊。ここから雪の中1600mも下らないといけないのかと、この時点で半ば心が折れていた。
パンサン頂上にあるロッジで焚き火の前で暖を取りながら、遅めの昼食にあったかいミルクティーとヌードルを頂く。ガイドのサニッシュが、もし身体がつらいならここに泊まってもいいが、高山病がきついなら無理してでも高度を下げた方がいいというアドバイスに、なんとか心を奮い立たせ、出発を決める。

当然ながら下りは登りよりも楽ではある。高度も下がるから頭痛も和らぐ。それでもここから5時間以上歩く必要があって、途中に休憩する場所はない。今の時代、気合いという言葉は野暮かもしれないが、必要なのは文字通り気合いだけだった。歩いて2時間くらいが経ち、残雪が薄くなった頃、後ろから若いタマン族の子が飄々と歩いてくる。目的地は同じだということもあり、一緒に休憩することに。会話する中で、私が水晶を探していると言うと、実は彼が水晶を持っているといい、カバンの中からゴソゴソっと取り出したものを見せてもらうことに。これぞ探していたモノだというものがそこにはあった。
水晶ならなんでもいいと質にこだわらないのであれば、世界中どこでも探し出すことができる。日本でも全国的に採掘できるし、水晶山と名がつく山もたくさんある。自分がなぜこんなにもヒマラヤ水晶、特にガネーシュ・ヒマール産のものに惹かれるのか、理由はわからない。もうその理由を求めることも、いらないのかもしれない。きれいなものはきれい。彼が取り出したものは紛れもなくそれだった。偶然なのか、必然なのか。偶然が必然に転化したのかはわからない。ただ、ここから一気に事態は急転することとなる。

おのさんぽ in Nepal vol.4
人、物、事との出会いの不思議とは一体何なのだろうか。この広い地球において、偶然にも同じ時間にその場に出くわすということ。その確率の奇跡を感じずにはいられない。もし、あの日、あの時間に、雪の中をパンサン峠を下っていなかったら。もし、ガイドのサニッシュが人見知りで、彼に声をかけてコミュニケーションをとらなかったら。いろんな”IF/THEN”によって、この世界は成り立っている。
ミニスというタマン族の青年のおかげで、ティプリンでの滞在は濃密な時間となった。彼の家族を紹介してもらい、普段の生活を覗かせてもらったり、水晶の採掘現場のある山に連れていってもらい、そこのコミュニティを紹介してもらった。自分が知りたい、観たいと思っていた光景がそこにはあった。セレンディピティというものを、自分はどこまでも信じている。ただし、自分自身が開いていなければ、それを受け取ることができない。すべてはタイミング次第であり、そしてその瞬間に自分がどれだけ開かれているか次第なのだ。
自分がハァハァいいながら登ってきたこの峠道を、彼は日帰りで往復したり、軽装で、ときにはサンダルで軽々と登っていく。環境が人を作るとはよくいうが、この体力もまた環境によって作られたものなのだろう。そういう意味では、貧困もまた環境によって作り出されたものなのだろうか。そもそも何をもって貧困というのだろう。寝る場所、食べる物が必要最低限あり、近くには助けてくれる家族たちがいる。たまたま日本からやってきた自分の眼には、物資やインフラが乏しくそのように映っただけであって、ほんとのところ彼らは幸せに暮らしているかもしれない。この、勝手に意味を与えようとする自分とは一体なんなのだろうか。俯瞰した安全圏内の位置から、相手の暮らしを覗き見して考えているだけになっていないだろうか。それでも自分はここにいる。水晶を求めてこの山に入り、彼らの暮らしに触れようとしている。その行為自体もまた、何らかの欲望や好奇心から来ているのではないか。そんな葛藤が、脳裏を掠める。

このルビーバレートレッキングの中で出会った人たちの中に、外国人が来たから騙してやろうとか、嫌な思いをすることは一度もなかった。むしろ、どれだけ彼らのやさしさに触れることができただろうか。山道をすれ違う途中、現地の人たちやガイドのサニッシュからビスターレ(Bistaare)というネパール語で”ゆっくり”という意味の言葉を何度も何度も何度も投げかけられる。登り道、急いでも息が乱れて疲れるだけだから、ゆっくり行こうよと。
ある夜、焚き火を囲んでダルバートを食べながら、サニッシュが静かに笑った。特に何かを語るわけでもなく、ただ火を見ていた。その沈黙が、どこか心地よかった。私たちは何にそんなに追われているのだろうか。急いだところで人間最後に行き着く先は死という意味では一緒なのだ。それよりもどう在るか。どう生きるか。彼らのようにやさしく在りたい。心の底からそう思えた。困っている人に手を差し伸べ、ときに笑いながら焚き火を囲んでチャイを啜る。それでいいじゃなく、それがいい。
水晶を探す旅が、どうやら人としての在り方を考え直す旅となったようだ。もっと、ゆっくり。もっと、やさしく。まずは、自分自身に対して。そこから始めるしかない。さて、次の目的地のインドへと進もう。

