遅さとは、未来を耕す姿勢

小野泰秀

「もっと早く」「もっとたくさん」「もっと便利に」「今すぐに」。
そんな言葉があたりまえのように交わされるこの社会のなかで、自分はときどき立ち止まりたくなる。
何かに追いつくために、誰かに遅れをとらないために、いつのまにか「速さ」や「多さ」だけが価値であるかのような風潮に、自分の感覚がすこしずつ麻痺していくのを感じる。
SNS、即日配送、1分動画、即レスのメッセージ。
「待つ」という時間がほとんど消えつつある日常のなかで、湧いてきた疑問がある。
「自分の知覚は、この速度についていけているのか?」
技術が進化した今、身体や感覚のリズムまで変えられたような気になっていたけれど、実際には、身体はまだ、遅いままの速度でしか世界を受け取れていないのではないか。そんな違和感が、自分を「遅さ」へと向かわせるきっかけとなった。
きっかけはここ最近立て続けに経験した出来事にある。
アーユルヴェーダやヨガの教えを体現するひなさんの学びの場で行った瞑想の会だったり、数年ぶりに再開した山を歩くということ。
岡本よりたかさんとあやさんの「つちとて」でのハーブガーデン作りや手縫いのパンツ作りも、遅さの大切さに気づいた一つの理由だ。
最近、暇を見つけては山へ通うようになった。
といっても、いわゆるアクティブな登山ではない。
山頂を目指すというよりも、ただ「歩くために歩く」ような山行だ。
足裏に伝わる土の感触。
斜面の角度にあわせて変わる呼吸。
木々の間からこぼれる光、風がゆらす草の音。
山の中では、時間が別のかたちをしている。都市で暮らすときのような「時刻」や「予定」ではなく、感覚の変化によって区切られる、内的な時間。
1時間歩いたつもりが、10分しか経っていなかったり、逆に、立ち止まって苔を眺めていた数十秒足らずの時間が、数分にも感じられたりする。
この時間の歪みのなかで、初めて「自分の速度」に気づかされるのだ。
世界の速度ではなく、自分の、呼吸と鼓動、知覚の速度に。
自分たちの社会は、「速くあること」=進歩、善、美という観念に強く支配されている。
現代社会が信じてきたのは、「速く、効率よく、結果を出すこと」だった。
この加速主義のもとで、私たちは多くのものを失ってきたのではないか。
たとえば加速主義の弊害を挙げてみると、
思考の浅薄化:速さを求めるあまり、熟考する時間が奪われ、意見が即断と断定に傾く。
身体の分断:デジタル化が進むほど、手や足を使う営みが軽視され、身体と感覚が切り離されていく。
自然との乖離:季節の変化や植物の成長を感じ取る力が衰え、「すぐに得られるもの」だけに価値が置かれる。
過労と消耗:より多くを、より早く求める社会では、人間は休むことすら生産性の敵とみなされる。
関係性の希薄化:人との対話すら短縮され、深く信頼を築くより、早く繋がることが優先される。
速くすることが“善”とされる世界では、遅く在る者は怠けているように見られる。
速度が上がれば事故も起きる。フランスの思想家ポール・ヴィリリオが指摘したように、「加速がもたらす災害」は、感覚の喪失というかたちでも現れている。そして、テクノロジーの進化が人間の知覚に追いつかないという事態が、今まさに起こっている。
AI、アルゴリズム、通信インフラ、物流。
テクノロジーは間違いなく飛躍的に進化している。
しかし、それを使う人間の感覚や感情は、同じ速度で進化していない。
たとえば、AIが生成した情報は秒速で届くが、それを「理解」し、「咀嚼」し、「判断」するためには、人間の内的なプロセス──感じ、考え、腑に落ちるまでの時間が必要だ。
けれど、その“待つ時間”を、社会全体が奪い始めている。
この速度の非対称性が、情報は増えても、感受性が薄まっていくというパラドックスを生み出している。
情報が多すぎて疲れているのに、何も本当には感じ取れていない。
それがいま、多くの人が感じている漠然とした喪失感の正体ではないだろうか。
この状況に対し、思索的に「遅さ」の価値を見直す動きもある。
たとえば、レベッカ・ソルニットは『ウォークス 歩くことの精神史』のなかでこう書いている。
「歩くことは、思索の母体である。人間の哲学は、歩きながら生まれた。」
歩行という営みは、身体と場所と時間が重なりあう行為であり、そこで初めて、自分の思考が深まり、言葉に重さが宿るのだと彼女は言う。
この「歩く知性」は、今の情報環境とは対照的だ。
即時反応ではなく、遅延と思索によって編まれる知のあり方。
また、日本では評論家の宇野常寛が『遅いインターネット』という構想を著書の中で提示している。
彼が言う「遅いインターネット」とは、瞬間的な感情共有や炎上とは違う、時間をかけて編まれ、読まれ、再読される知の場所。アルゴリズムの海ではなく、思想の川のような流れを取り戻そうという提案でもある。
このような思想や考え方は、自分の生活における登山や庭仕事、手仕事などの営みと垣根を越えて深く呼応していると感じる。
どれも、遅さを通じて「関係の濃度」を取り戻すことを目指しているからだ。
遅いことは、何も生まないのだろうか。
そんなことはない。
むしろ、深く関わるものごとは、すべて遅くしか育たない。
遅さとは、未来を耕す姿勢である。
人と人との信頼も、
土から育つ食べ物も、
一冊の本に潜む意味も、
すべては「時間をかけること」でしか手に入らない。
山を歩く。
庭に立つ。
布に針を通す。
アクセサリーを作る。
それらは結果のためではなく、世界と再び関係を結ぶための日常の儀式なのだと思う。
自分にとっての「遅さ」は、単なる“ゆっくり”という意味ではない。
それは、自分の身体と時間を繋ぎ直す行為であり、
自然と共鳴するための周波数を調整することでもある。
効率を求めないことは、抗うことではなく、取り戻すことだ。
「結果」ではなく「過程」に重きを置くこと。
「到達」ではなく「在る」ことに価値を見出すこと。
テクノロジーの速さを否定するのではなく、
その流れのなかで自分の速度を見失わないために、
自分は遅さを練習しつづけたい。
うつしきでは夏至の6月21日より、陶芸家 河合和美展を開催中です。
喫茶室の方では和美さんの器を用いて、新しい日常料理ふじわらの奈緒さんによる「かっこみスタンド」を開催したのですが、ほんと最高でした。
おかげさまで初日、二日目と盛況な時間を過ごすことができました。
展示は29 日の日曜日までとまだまだ続きますので、九州での展示は初という和美さんの作品に触れられるこの機会に是非足を運んでみてくださいね。
ではでは、
ハッピーラブレボリューションな週の始まりを♡