運を動かし、運勢を変える
yasuhide ono

最近、新しい習慣として早朝に走っている。
といっても毎朝ではなく、週に2、3回、膝の調子をみながらではあるのだが。
ただ、この“走っている最中”という時間がすこぶる気持ちいいのだ。
まだ星が空に残っている時間帯、空気は少し湿っていて、世界は半分だけ目を覚ましている。
そのなかを、だいたい10キロほど、1時間ちょっとかけてゆっくり走る。
手足を前後に動かすという単純な動作が、頭の中のノイズをどんどん取り除いてくれる。
走り出して15分もすれば、思考はほどけ、呼吸と足音だけが残る。
仄暗い河川敷沿い、街灯の光が遠くにぼやけて見える。
そのあわいの時間に、自分の内側と外側の境界が曖昧になる。
「自分」という輪郭が少しずつ滲んで、ただ生きていることそのものが嬉しくなる。
気づけば心の中で、
「地球に生まれてよかった!この大いなる宇宙よ、ほんとありがとう!」
と叫びたくなっている。朝の5時過ぎ、誰もいない道の真ん中で。笑

せっかく走るなら目標があった方がいいと思い、2026年2月の北九州マラソンに申し込んだ。
完走を目指しているけれど、正直タイムにはあまり興味がない。
それよりも、走っている時間そのものがご褒美みたいだからだ。
身体というのは、死ぬまでついてまわる“いちばん近い他者”のような存在だと思う。
日々の中で、つい頭や心ばかりを動かしていると、この身近な他者との対話を忘れてしまう。
走るというのは、そんな身体との会話を取り戻す行為でもある。
息が上がり、足が重くなり、汗が頬を伝う。
その全部が「生きている証拠」であり、
「いま、自分はこの世界の中で動いている」と確かめる感覚だ。
年を重ねたとき、山を登り、海を渡り、まだ見ぬ世界を歩きたいと思う。
その時のためにも、身体を動かし続けておきたい。
走り終えたあとのシャワーの爽快さも、日に日に軽くなる身体の感覚も、
どれも生きている実感を連れてきてくれる。
なにより運動後の飯が旨いというご褒美もついてくるのです。

「運動」という言葉は、漢字で書くと“運を動かす”と書く。
運勢とは、運に勢いがつくこと。つまり、運動すれば運勢がよくなるということだ。
誰が考えたのかはわからないが、なんと単純で都合のいい話だろう。
けれど、走り終えた朝の空の清々しさを感じていると、それがまんざら嘘でもない気がしてくる。
運という目に見えないものも、たぶん身体と一緒で、動かしてこそ巡るのだ。
運を動かし、血を巡らせ、思考をほぐし、心を澄ませる。
それが一連の“生きること”なのかもしれない。
健康的で、運がよくなって、体力がついて、見た目もすっきりして、精神的にもタフになる。
そう書くと、まるで運動教の布教活動みたいだが(笑)、
それでもやっぱり身体を動かすのが大好きだ。
夜明け前の道を走っていると、まだ誰も踏んでいない今日が、足もとから始まっていく気がする。
それが毎日の制作のリズムを作っていく。

木工家 督田昌巳さんの展示は昨日で終了しました。
抽象画のような素晴らしく格好いい作品たちに囲まれる至福の時間でした。
オンラインでは11月14日の9時まで掲載していますので、ご縁のある方は覗いて見てくださいね。
まもなく今年最後の大仕事の一つ、離れの改装工事が始まるのでその片付けに追われているこの頃。
この瞑想的な空間が、また新しいうつしきの一面を生み出してくれることを信じている。
世界の見方は人それぞれ違う。
善悪も美醜もすべて心の在り方がその人の世界を作る。
せっかくなら楽しく高め合う世界がいいなと心の底から本気で思う。
ではでは、今週もハッピーラブレボリューション♡

