私は音楽家です。
今回「聖歌」「合唱」をテーマに学びの場を担当させて頂きましたが、その感想の前に、
わたしが音楽を生業にした経緯からお話しします。
小さな頃から歌うことが大好きで、小学2年生で合唱団に入りました。
その合唱団は、教会音楽をレパートリーとする日本でも稀有な団体で、両親共に仏教徒な私に
その崇高な音色は凄まじく荘厳に響き渡り、落雷のような衝撃でした。
初めてのレッスン日、緊張の面持ちで在籍メンバーに加わり、
楽譜を手渡されましたが、もちろん楽譜なんて読めません。しかもラテン語。
それでもメンバーの大合唱に引っ張られ、つられながら歌った瞬間。
-声で溶け合いました-
感動の始まりです。
その日から、(大人になったら音楽で生きていこう)そう心に決めました。音楽が得意だったわけではありません。
自分より上手な子が山のようにいることも自覚していました。とにかく好き、それだけでした。
『好きこそ物の上手なれ』
本当に好きならば上達する望みがある。
もちろん何度も揺らいだけどそれでも最後戻ってくることが出来たのは、自分の気持ち。
好きだから周りの評価関係なく続けました。
さて。学びを伝えることに対して、自分が出来ることは専門知識の伝授だけではありません。
何故そこに至ったのか。どれくらい好きか。
特殊技能が偉いという意味では全く無く、関わるものに対して今までどんな角度で臨んできたか。
独自の切口以外では、伝わるものも伝わらないと思うのです。
この想いを子供達に、そしてかつて子供だった我々大人に
もう一度噛み締めて貰えたらという小さな希望を託し、講師として皆さんの前に立ちました。
今回、学びの場「大人の部」では、
参加者の皆さんにとって未知の領域である“グレゴリオ聖歌“に挑戦して頂きました。
脳は、感じたことのない領域に出逢うと活性します。
その体験は新たな知識が増えるという側面だけでなく、今まで見えていた景色が変わっていく力すらあります。
歌いはじめは当然皆さん戸惑われていましたが、目を閉じて音に全身を委ねるようになると、
(自分も生きていて良いんだ)そんな感覚が生まれる方が多いようでした。
声を出すことは、とても勇気がいることです。それでも皆さんトライしてくれた。
尊いとはこのような瞬間を指すのではないでしょうか。
私達が開く場に来てくれた、その事実だけでも百点満点を差しあげたい位です。
合唱というのは当然一人で出来るわけがなく、声を調和させていくことが大切ですが、
お互いの背景を知らない人同士が声で助けあい、高まりあう光景は、神々しくとても美しいものでした。
学びの場「子供の部」では、合唱をしました。
我が子を鼓舞しようと、いつの間にか一緒に歌ってくれていた御父兄の皆さんも巻き込んで‘家族の音‘を奏でました。
課題曲はコピーライター、詩人である大塚ミクさんが作詞を担当して下さり私が作曲を手がけた
「このほしのたからもの」
♩たすけて いいよ たすけて いいよ
この繰り返しをまず練習しました。
私達がこの曲の中で最も伝えたいメッセージです。
はなから堂々と歌える子もいればお母さんから離れられない子もいました。
それでも最後「本番だよ」の掛け声と共に歌った時の子供達の堂々としていたこと!
重なりますが、合唱は一人では出来ません。助けあうことが必要になる。
音楽を通して、そのことを体験して貰えたことが嬉しいです。
芸術という側面から語ると、声を出していない時間も音楽には大切な栄養です。
音楽には、その人が現れます。体験が現れます。
格好つけてる人の音は格好ばかりで面白くない。練習ばかりの人は真面目すぎてつまらない。
私が良いなと思う音色は、不恰好でも人柄が伝わる音色です。
豊かさとは何でしょう。
お金の時代は終わりました。階級の時代も終わりました。
豊かさとは、「自分はどうしたいのか」内なる声に従い、次の一歩に向けて学び続ける、
好奇心を養うことができる心の居場所を作っていく。
その日々にあるのではないでしょうか。
最後に、学びを終えた参加者の皆さんの胃袋と心を満たしてくれた
植物料理家のきみえ、野田悠子さんに感謝を。
地球からのお裾分け、愛しき大地から運ばれた野菜達を、彼女のベースである
・手のこんだ家庭料理
・熟練の技が光るフランス料理
両者の絶妙なコラボレーションで生まれた一皿一皿は、
高い創造性と愛情が混じり合いながら奢ることなく食べ手と同じ視線で提供された食事でした。
お皿を前にした皆さんの感嘆の声が今も耳に残ります。
医食同源。
学びを五感で味わう、記憶に残る一日でした。