差し出されたギフト
「あなたにギフトを差し出している人がいる。もしあなたがそのギフトを受け取らなかったらそれは誰のものになると思う?」
わたしのヨガの師はそう問いかけました。続けて彼はこう言います。
「差し出している人の手元に残ったままだよね。」
先日の「学びの場」での時間を思い返していたら、ふと
わたしたちがいただいた最高のギフトはこの「身体」だと感じました。
ギフトを受け取ること
今年の1月のニュージーランド、ある瞑想センターでの出来事でした。
その場所は、ティク・ナット・ハン師の瞑想法を実践するコミュニティ。
非日常の輝かしい体験ではなく、誰もがそのすべて、もしくはどれかには触れたことがあるような当たり前のこと
たとえば歩くこと、食べること、掃除や家事、植物に触れるという行為をマインドフルに(瞑想的に)行っているセンターでした。
初夏らしい色とりどりの花が咲き誇る庭で、雨がちょうどあがった昼下がりに靴を脱いで歩く瞑想を行いました。
かかとから大地に足を置き、そこからゆっくりと指先が地面につくように体重をかけていく。
足の裏から土の冷たさと水分、柔らかさを感じていくと、土の中に住む微生物の賑やかな声が聴こえる気がします。
今度は太ももの筋肉に力が入ってふっと軽やかに足の裏が浮き、足先がかすかな風を切るのを見届ける。
つい見過ごしてしまいそうな繊細な感覚に気づこう、と全身に意識を向けると
自然と呼吸と身体の動きのタイミングが合ってきて、自分の中に一貫した流れが生まれてきます。
実際にはたった数十分、しかし感覚としては長い旅のような時を経て、すっかりわたしの内側が静かであたたかく満ちていました。
そして、「食べる瞑想」と出会いました。
歩く時と同じ気持ちで五感全部を取りこぼさないようにと、全細胞をセンサーにして
目の前のスープが人生最初の、もしくは最後の食事かのように口に入れたその時
「わたしは今までほんとうの意味での食事をできていなかったんだ」と衝撃を受けました。
野菜の味わいだけでなく、それらが育った大地までをも味わった感覚。
身体の中に食べ物が入り、それがわたしたちの血液となり、常に働いてくれる臓器たちをやさしく満たしていくのを目撃したような
そんな感覚にハッとさせられました。そして、そのおいしさに身体がよろこびました。
この二つの体験は、目の前に差し出されたギフトを「ほんとうの意味で受け取る」ことを練習させてくれたように思います。
学びの場
今回行なったヨガ、チネイザン、食べる瞑想のWS。
お越しくださったみなさまから、わたしたち人間がいかに可能性に満ちているか、を改めて教わりました。
ヨガとチネイザンの後の曇りのない晴れやかな表情
おにぎりを頬張りながら涙が出そうでしたと話してくれた方
手がよろこんでましたと伝えてくれた方の手のひら
手で食べたことで野生に戻った気持ちがしました!と笑う顔
幸せな気持ちが止まりませんと表現してくれた方
涙を流すうつくしい横顔
その全ては偶然のミラクルではなく、わたしたち夫婦が魔法を使ったわけでもなく
自分という存在にしっかり向き合い、身体というギフトを受け取り、丁寧に扱った、その結果なのだと思っています。
「学びの場」
改めてこの言葉の意味を考えていたら
あぁ、自分自身のことなのかと腑に落ちました。わたしたちが頂いたこの最高のギフト、身体。
それを生かしていくこと自体に無数の学びがあり、「学びの場」とはまさに自分自身のことなのだと思います。
そして、自分の身体をほんとうの意味で使えるようになったとき、わたしたちは目の前に存在する無数の奇跡に気づき、
心を動かされ、その一つ一つをギフトとして受け取れるようになるのではないでしょうか。
自然界が季節ごとにうつくしい変化を織りなすように
わたしたちもまた自由に、寛容に変化していくことをたのしんでいけますように。