コンテンツへスキップ

遠回りの分だけ

yasuhide ono

yasuhide ono

Jewelry designer / utusiki owner
遠回りの分だけ

 

今年は去年よりも、山に登ろうと思っている。 理由は単純で、山にいる時間が心地いいから。そして、来月に控えたトレランの大会に向けて、自分の身体が環境に対してどこまで壊れずに進めるか、その境界線を確かめたいという欲求もある。頭で考える前に、身体が環境と応答しはじめてスッキリしていく。

 

ネパールのルビーバレーを歩いていたとき、そのことを改めて感じた。標高が上がるにつれて空気は薄くなり、一歩一歩の重さが変わっていく。それでも身体は、地面の傾きを読み、呼吸を調整し、気づけば動いている。 ふと足元に目が止まる瞬間がある。ごく普通の礫に見えても、光の角度で表面がわずかに白く透けていることがある。その石を拾い上げ、手のひらで転がしてみる。水晶の欠片は、きらびやかな顔をしていない。土と時間の匂いがする。それでも、確かに何かを宿している。 鉱物を見つける瞬間は、いつもそういう感じだ。


 

 

先日、小学生の長女と次男と初めて一緒に山に登った。 向かったのは、直方市にあるマイホームマウンテン"福智山"。標高は900メートルほど。何度も登っている自分にとっては「ちょうどいい山」のはずだったが、子供たちと歩き始めた瞬間、見慣れたはずの登山道は、未知の発見に満ちた未開の地へと姿を変えた。

 

子どもたちは、最初からペースという概念を持っていない。急に走り出したかと思えば、足元の石をじっと観察し、名前のわからない虫を見つけては立ち止まる。登ることそのものより、そこにあるすべてが目的になっている。 「なんでこの石、こんな形なん?」「この木、さっきのと違う匂いがする」と、 問いは尽きない。しかもそのどれもが、どこか本質を突いている。

 

気づけば、自分の歩き方も変わっていた。彼らが石を覗き込むたびに、自分もしゃがみ込む。登山でこんなに足元の木や石を見たのは、いつぶりだろう。ルビーバレーでは、鉱物を探すという明確な目的があって石を見ていた。でもこの日、福智山で見つめていたのは違う。目的もなく、ただ面白いから見る。その眼差しの方が、ずっと自由だった。

 

たぶん、誰にでもそういう時期があったはずで、道端の石を拾い、光にかざして、これは何だろうと思った瞬間、いつの間にかそれをしなくなって、気づいたら「見るべきもの」しか見なくなっている。子どもたちと歩きながら、自分がどこかに置いてきたその感覚を、少し取り戻した気がした。

 

でも、それ以上に気づいたことがある。 同じ石を、一緒に覗き込んでいるということ。同じ景色を、同じ高さで見ているということ。子どもと過ごす日常は、どうしても役割が生まれる。準備するひと、送り出すひと、待つひと。でも山の中では、そういう非対称がいったん消える。しゃがんで石を見るとき、どちらが親でどちらが子かは関係ない。ただ、同じものに向かって、同じように驚いている。その対等さが、なんとも心地よかった。


 

途中、少し急な登りで次男が「もうきつい」と言った。けれど、そのあとに続いた言葉が面白かった。 「でも、もうちょっと行ったら何かありそうだから、行ってみたい」

 

限界と好奇心が、同じ場所に並んでいる。そこで飴を一粒ずつ渡した。口に入れた瞬間、「うまっ」と声が出た。疲れた身体に甘さが染みていく、あの感覚。その顔を見ながら、自分も同じ飴をなめていた。同じ疲労、同じ甘さ、同じ「うまっ」。それを共有できることが、思いのほか嬉しかった。

 

頂上に着いて、持ってきたご飯を広げた。「山で食べるご飯って、なんでこんなに美味しいんやろ」と長女がぽつりと言った。空腹と疲労と標高と眺め、そのすべてが合わさって、ひとつの味になっている。その「なんでやろ」を、一緒に不思議がれることが嬉しかった。答えを教えるより、同じ場所で同じ問いを持てる方が、ずっといい。

 

なんだかんだ言いながら、二人は最後まで自分の足で登り切った。少しだけ弱音を吐きながら、飴をなめながら、石を拾いながら。ゴールに向かって歯を食いしばるのとは違う、もっとぐにゃぐにゃした、でも確かな意志で。 頂上に着いたときの達成感も、どこか質が違った。「登った」というより、「ここまで来てしまった」という感覚。遊びの延長線上に、結果として頂があった、というような軽やかさ。あの充実感は、タイムでも距離でも測れない種類のものだった。

 

 

この体験は、トレランやマラソンで感じていた時間の使い方や感覚と、対照的だった。 トレイルランニングでは地形を流れるように読み、瞬間的に判断し続ける。来月のレースに向けて練習を重ねながら、自分の身体が少しずつ地形の読み方を覚えていくのがわかる。マラソンでは内側のリズムと対話しながら、一定の反復を積み重ねる。どちらも、目的に向かって研ぎ澄まされていく時間だ。それはそれで豊かな感覚なのだが、あの日子供たちと過ごした登山には、その向こう側にある時間があった。立ち止まること、寄り道すること、飴一粒の甘さに「うまっ」と言うこと、それ自体が目的になっている時間。

 

その感覚は、石を扱うこととも静かにつながってくる。 仕入れでも、ものづくりでも、本来はもっと寄り道していいのではないか。効率よく選ぶのではなく、途中で手を止め、眺め、触れ、別の可能性を試してみる。ルビーバレーでの、あの「気づく」瞬間もそうだった。探していたわけではない。ただ、身体が先に反応していた。

 

あの日、子どもたちと登った山は、単なる標高900メートルの山ではなかった。同じ景色を見て、同じものに驚いて、同じ味に「うまっ」と言う。どれだけ遠回りしても、何も損なわれない。それどころか、遠回りの分だけ世界は豊かになっていく。

 

山を走り、石を拾い、形を作る。効率的な直進も、あの日教わったぐにゃぐにゃした遠回りも。そのすべてが、自分と世界との関係を、何度でも結び直していく。そんな豊かさをもっと味わっていきたい。もっと遊ばなきゃ!

 

yasuhide ono

yasuhide ono

Jewelry designer / utusiki owner

Related Articles

ひとりぼっちでいられるということは

ひとりぼっちでいられるということは

いつぞやに植えたクリムゾンクローバーがぽつんと咲いている 緑の中、真っ赤な花が目に止まる その足元には少し珍しいかたちの葉がいつのまにか増えていた   よ...

小野 佳王理
もっと見る
心地いい選択

心地いい選択

陽射しが益々眩しく感じられ、毎日何処かしらで、草刈り機の音が響いている五月。 ゴールデンウィークには立夏を迎えて、暦はもう夏なんですね! うつしきでは...

もっと見る