「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ」は、東北芸術工科大学が2年に1度主催する芸術祭で、今年で4回目を迎え、
世界の状況が一変した中で芸術祭の新しい可能性を示すべく、オンラインを中心としたプログラムを展開するということで、
うつしきとしては「土」「身体」「宇宙」をテーマに映像作品を発表します。
映像取材のため、うつしきとも関係の深い
iaiさん(京都)、野原さん(長野)、笑達さんと川井有紗さんご夫妻 (和歌山)がいる地へ10日ほどかけて周りました。
そして、今、まさにその編集の日々が続いています。
今回、取材した方たちは、それぞれの人生を着実に歩み、過去でもなく、未来でもない、今をうつくしく逞しく生きていました。
過去の自分に執着することなく、今日の自分を素直に受け入れているような。自分の身体の声に忠実と言えば、忠実。
だけど、自分の身体の声に従おう従おうと言うような感覚で生きていると言うよりは、
もっと力を抜いてただ自分が気持ち良いと思う方へと向かう、そんな印象を強く受けました。
取材は同時に、自分はどうなのかを考えるきっかけを与えてくれます。
自分は、今を彼らのように生きることができているのだろうか。
自分は彼らのように一日一日を大事に過ごせているのだろうか。
今を生きるとは、なんだろう。
「昨日、あった出来事をなんでもいいから教えてよ」
うつしきのボス、小野さんからの質問に対して、箇条書きにして4行程度しか答えられない私。
すかさずボスより一言。
「過去の記憶がないってことは、その時間を生きていなかったことと一緒だから」
ただただ何も言い返せず、自分の中で寂しさがこみ上げ、虚しささえも覚える。
同時にその瞬間、今を生きれていないことを、素直なこころで受け入れ、認めた。
自分のことは、自分が一番分かっているつもりでしたが、何一つ分かっていない、いや、分かろうとしてこなかったと言う方が正しいのかもしれない。
ビエンナーレの取材中、彼らを見ていると今を生きるとは、自分が思っている以上に複雑ではない。
もっと簡素であり、簡単なことなのだと思う。
必死になる時間も大事だけど、時には生活に余白があっていいかもしれないし、もっと力を抜いた時間があっていいのかもしれない。
何が自分にあっているのか、分かっていないのであれば、もっと自分と対話する時間を取るべきなのかもしれないし、
何も考えない時間を取ることも必要なのかもしれない。
自分には、何が合っているのか、フィットするのかなんて、試さないことには、何も見えてこない。
頭で考えすぎて、結局何もやらないよりは、まずはやって見て考える方がずっと楽だし、気持ち良いはず。
「できるか、できないか」じゃなくて、「やるか、やらないか」
よく耳にしてきた言葉だし当然のようにわかっていたつもりでいましたが、今更ですが、この言葉の意味が深く理解できたような気がします。
多分、こういった分かったつもりのことがまだまだ沢山あるんだろうなぁと思います。
小野さんも言っていましたが、頭でわかったことなど、信用しないように気をつけます。
今日の自分が、昨日の自分とは何か違う自分でありたいのであればそれは今日の自分をまずは生きること。
その積み重ねでしかないのですね。
小田 雄大