最初に柿に目覚めたのはもう8年くらい前になるだろうか。御多分に漏れず、もともとは心に響く食材ではなかった。
お客様でもあった農家さんに差し入れをしていただいたのだが、その柿は熟度がすすむとまるでマンゴー!
芳醇な味ととろける食感に完全に目が開いた。柿ってこんなにおいしい食べ物だったのか。
夢中でその場で大きな柿を2-3個ぺろりとまるかじりした。届くたびにそんなまるかじりの日が続く。
植物性のお菓子を作り続けている。
子どもが生まれたことをきっかけに、マクロビオティックに出会ったのだが、当時、家族もわたしも特段病気をしていたわけでもなく純粋にあたらしくて、おいしくて、楽しい世界にうつった。
食材の組み合わせや調理法に不自由さや面倒も感じることもあるのだが、陰陽のバランスや法則が少しずつ頭に入っていくと、その不自由は自由になるためのものだったと知った。
最初は趣味でお菓子作りをはじめるのだが、難しいチャレンジ食材もあれば、あっさり簡単にできるものもある。
キッチンでの小さな発見の数々に感激し、夢中になっていった。
卵じゃなきゃ、バターじゃなきゃ作れないというものは案外少なく、「じゃなきゃいけない」と思っていることは、思い込みやとらわれなのかもしれないと感じるようになった。
そのうちにキッチンでなくても、「じゃなきゃいけない」と言われていることが、はたして本当にそうなのかと意識するのがくせになった。
じゃない方を選んでも何の問題もないし、大抵はたのしくなっていっていた。
食べ方が生き方になって、そういう小さな積み重ねが今も植物性のお菓子を作り続けている理由なんだと思う
お菓子に柿を使う。
これがなかなかむずかしい。
初めて出会ったときは未熟でシャリシャリだったのに、ちょっと目を離したらカットしている間にも実がとけるように崩れてしまったり、まったく意のままにならない。
学びの場に来ていただいたみなさんも柿がだいすきというよりは、庭の柿を持て余していたり、柿のおいしさをまだよくわからないという方がほとんどでした。
最初に柿をカットしてもらう。
隣の人が切った柿も食べ比べてもらい、上の方になっていた柿と下の方、隣同士の木、それぞれ少しずつ味が違うことがみなさん、新鮮な驚きのようでした。
さっぱりと淡かった生の柿は火を通すと味も形も凝縮され、生柿とも干柿とも違う食感になり、工程すべての段階で試食をしてもらい、どう変化していくのかを味わってもらいました。
熟柿も敢えて手で崩してもらい、柿はここまで変化するのだということを感じてもらいました。
その後もかき混ぜたり、掴んだり、目以外から記憶する情報もとても多いことをお伝えし、積極的に手を動かしていただきました。
合わせる食材も注意が必要で、柿単体ではおいしいのに、他の食材と合わせると、あのときのげんきはどこへ?というように味がぼやけてしまう。
一般的に合うと言われている食材も加減をきをつけないと、結局引き立て役が目立って柿は完全に脇役となる。
既存のレシピを鵜吞みにせず、目の前の柿をとにかく観察することが一番大事。
シャリシャリだろうが、熟柿だろうが、出会った柿と最小限の食材でだれでもおうちで簡単に柿が主役のお菓子をつくれたら。
そしてそれを数字ではなく、五感で記憶できるようにを目指しましたが、柿によって変わるカットの厚みや調理のコツを言葉でお伝えすることや、みなさんの心境の変化を感じ取りながら作業をすすめることに慣れていないので、わたし自身も学びになりました。
大切なあれこれをぎゅっと詰め込みつつも、いろんなことを潔くそぎ落としたレシピにしたつもりですが、それはちょっとした道標にすぎないこともお伝えしたい。
あの場所で柿のいとおしさを一緒に味わえたらそれが一番。
佳王理さんが「柿の会をひらいてください」といってくれたとき、お菓子教室は極力避けてきたことなのに「ぜひ」と即答して自分でも驚いた。
これ以上ないタイミングで実ってくれたうつしきの柿たち。
目の前にあるものでたのしめるというよろこび。
小さなことでも見つめていると、そこから世界が無限に広がっていくことがたのしいしうれしい。
それをわたしにとっての学びと言いたい。
毎日すぐそこに感動があふれている。
だからわたしはしあわせだ。
心からそう思う。
季節ごとにそんな魅力的な食材が次から次へとやってきてくれるのだから。
めまいがするほどしあわせだ。
わたしの学びはきっと尽きない。
来てくれたみなさん。
心から楽しい時間をありがとうございます。
柿もありがとう。