いのちに触れること
ここ数年は「いのち」というものに向き合う日々を送りました。
そしてそれは今なお、家族の旅立ちを終えてからも、ますます自分の中で気づきを得る経験を重ねています。
「いのちに触れること」の自分なりの気づきがあった、まさにそんな時に、学びの場で触れるコミュニケーションについて話してほしいという連絡をいただきました。
家族がこの世界に居なくなっても、「気配を感じる」ことや「インスピレーション」という形でメッセージを受け取ったり、振り返ると道筋をつけてくれたのだなぁと感じる出来事がおこったりと、その存在を確かに感じる事が出来るけれど、どうしてもできない事があります。
それは、直接触る事なのです。
友人から「今一番好きな時間は?」と問われたときに私は「シャンティ(愛犬)を抱きしめること」と答えていました。
肉体を持たない今、シャンティも主人も抱きしめる事がかないません。
私達がこの世界に生きている醍醐味は、この肉体を持っているという事なのではないでしょうか。
身体に触れることは、いのちの営みに触れること。
学びの場では、私が今まで体験したり感じている「いのちに触れる」世界をシェアして、皆で響きあえたらと思いました。
いのちのなりたち(わたしたちは何で出来ているのか)
私達のいのちは目に見える肉体と目には見えないけれど確かに存在している様々ないのちの層
肉体・エネルギー・マインド・直感・魂でなりたっていると教わりました。
アーユルヴェーダでは、人の身体は5つのエレメントで出来ている小宇宙であるといい
私達は五感という入口を使って大宇宙である自然と小宇宙である自己とをつないでいるといいます。
日々感じることを通して5つのエレメントの光を内側に届けることを体験しているのだとしたら
わたしはどんな感覚をとりこみたいのだろう。
美しく心地よい感覚を取り入れていきたいと思うのです。
日々のその意識の選択が、私の世界、そして人生というものを創り上げていくように思います。
エネルギーに触れる(内なる感覚を研ぎ澄ます)
いのちに触れるということは肉体だけでなくエネルギーに触れることでもあると思うのです。
それはサイキックな能力がある人にしかわからないというものではなく、全ての人の中にあるのだけれど、いつもは無意識に見落としてしまっている感覚。ビリビリしたり冷たかったり暖かかったり、流れていたり脈打っていたりするエネルギーというものを、ムドラー(印)という手の形を使ったり、呼吸を観察したり、脈に触れたりすることで、エネルギーが肉体に触れている感覚を呼び起こすことが出来るように思います。
「意識を向けること」から現れる自分の内側にあるもの。人のいのちは神秘に満ちていますね。
からだに触れる(言葉を超えた対話)
家庭で簡単にできるマッサージは、やり方によってはとても瞑想的で神聖な時を持つことになります。
静かな場所で黙って静かに座り、五感を使って身体の声を聴く事は、今この瞬間に立ち戻ることができますし、他者へのマッサージは自分以外のいのちに触れて、他者と自分とを隔てる目に見えないブロックから解放されて大きな安心や愛というものに繋がることが出来ると感じています。このやすらぎを得る歓びがあるから、私は今の仕事を続けているようにも思います。
学び続けること
6月は私のいのちがこの世界に誕生した月。思いがけず、うつしきファミリーにお誕生日のお祝いをして頂き、いくつになっても祝っていただける喜びを味わいました。
人生はずっと学び続ける事なのだと長く生きているとつくづく思うのです。
若かりし頃の私は、今の自分の年齢の大人は何でもよくわかっているものだと想像していたものだけれど、今、ずいぶんな大人になっても何もわかっていない自分がここにいます。
そして「学ぶ」とは「勉強すること」とも少し違うように思います。頭で知る知識と自分の体験で落とし込んだ経験とはおさまるところが違うのでしょうね。世間で一般的に正しいと言われていることも、自分の体験の中では違うということもたくさん出てくるように思います。
学ぶということは、暗記することではなく、自分で考えて自分で経験して身につけたり、深いところに落とし込んだりして、一生をかけて成長していく事なのだと思います。
そういった意味では、人はなぜ産まれてくるのか、私達は何者なのだろうか
という、今回の命に触れることの中にある深いテーマは、生きていく中で一生をかけて学び解き明かしていくために、今、私達は良いことも悪く思えることも経験しているのだと思います。
そしてその学びをヒントに自分はどう生きたいのか、どう在りたいのかという大切なことに気づいていきたいと思っています。